・用明天皇二年(2)
前回言及した場面が物語の最後まで続く調子麻呂と善信尼の純愛の始まりなのだが、尼が襲われたのは蘇我馬子の解釈では、274頁7コマめ、物部「守屋のやつ」の、275頁2コマめ「差し金」なのである。さらに3コマめ「最近の流行病」は「崇仏派」のせいだと物部「守屋のやつが叫んでおる」ことに触れる。4コマめに蘇我毛人によって流行病が「瘡(天然痘)」であることが説明される。そして277頁、大王(用明天皇)が瘡に罹患してしまう。
持ち堪えて欲しいと願う蘇我氏の思惑を余所に、事態は大王の死に期待する物部守屋や穴穂部王子の思惑通りに進む。疫神の姿を見ることが出来る厩戸王子であったが、見えるだけで止めることは出来ない。そしてついに、292頁1コマめ、大王の魂は4人の疫神によって連れ出されてしまうのである。2コマめ、厩戸王子、泣く。
これがいつのことかと云うに、296頁1コマめ「五八七年四月 橘豊日大王崩御/磐余池上に殯す」とある。
疑う余地もなく用明天皇二年(587)である。
・文庫版第一巻298〜300頁、厩戸王子が用明天皇の遺詔を発表するが、301頁4コマめ、蘇我馬子が「して厩戸王子 大王はご自分の後継者のことはなにか おおせられましたか」と尋ねるのに対し、10コマめ「大王はなにも申されなかった」と答える。大王の動作に謙譲語を使うのはおかしい。それはともかく302頁2〜4コマめ、これを聞いた蘇我毛人の心内語はまず「なんと巧妙な/‥‥」と舌を巻いて内容を分析し、そして4コマめ「14になったばかりのご自分の年齢では今すぐ大王の後継者になるのに無理があることを百も承知なのだ」と纏める。
・文庫版第一巻303頁、2コマめ、蘇我馬子が「それにしてもあの時 王子はいっそ ご自分が次期大王を託されたといってしまってもよかったものを」*1と言うのに対し、3コマめ、蘇我毛人は「しかし先月14歳になったばかりの王子が大王になれたでしょうか」と答えている。
1月30日付(07)に「×歳になったばかり」という表現に注意し、1月31日付(08)の最後に満年齢らしいことに注意して置いたが、当時は誕生日で歳を取るわけではないから「先月14歳になったばかり」はおかしい。おかしいけれども満年齢で、誕生日に歳を取る勘定で書いているとしか思えない。思えないのだけれども厩戸王子はこのとき満年齢では13歳で、十四歳というのは数えである。そうすると、誕生日に数えの年齢になる、という計算なのであろうか。ちなみに四月の「先月」だから厩戸王子は三月生れということになるが、そういう記録や伝承はないようである。
・文庫版第一巻304頁7コマめ〜306頁7コマめ、朝廷で後継者について話合いが持たれた折、強く穴穂部王子を推す物部守屋に対し、蘇我馬子は305頁6コマめ、おずおずと厩戸王子の名を挙げるが、7コマめ、
物部守屋:「これは笑止! 14歳になられたばかりの王子を大王になぞ話にもならぬわ/それならば19歳になられた彦人王子のほうがまだしもじゃ」
と一蹴される。彦人王子は1月29日付(06)によって蘇我毛人より年上で、1月31日付(08)に未成年であること、2月1日付(09)に敏達天皇十四年(585)の時点で「あと3年もすれば‥‥成人する」とあったが、ここで初めてはっきりした年齢が示される。用明天皇二年(587)に数えで十九歳とすれば西暦569年生で、1月29日付(06)で確認した西暦570年生の蘇我毛人より1歳年上である。そして「成人」を二十歳に設定していることも察せられる。
* * * * * * * * * *
ここで1年遡る。
・用明天皇元年(2)
前回から、どうも敏達天皇十四年(585)の翌年が用明天皇二年(587)になっているように読める(というか、そうとしか読めない)ことを指摘してきた。
用明天皇元年(586)に相当する年がなくなっているのである。
その理由を考えてみる。
この頃は『春秋』の書き方と同じく踰年称元法で、君主が即位した翌年正月から「元年」として勘定することになっていた。すなわち、用明天皇は敏達天皇十四年(585)九月に即位しているが、翌年が用明天皇元年(586)で、用明天皇二年(587)四月に崩御、そして同年秋に異母弟泊瀬部王子が即位して、翌年が崇峻天皇元年(588)である。
ところが今は、年号の改元があるから、年の途中であっても年号が改まって、その年号の「元年」になる。かつ一世一元だから年号の元年がそのままその天皇の元年という印象になる。
この食い違いから、前々回引いた「厩戸王子 関連年表」の「五八五」年条の乱れではないが、敏達天皇十四年に用明天皇が即位したことから何となく敏達天皇十四年=用明天皇元年という思い込みが生じて、その翌年に用明天皇が崩御させるような運びにしてしまったのではないか、と思われるのである*2。
最後に念のため、大嘗祭の延期云々は、敏達天皇十四年(585)ではなく、1年経っていて用明天皇元年(586)のことだった、という可能性を考えてみる。――しかしそうすると、用明天皇即位を決定的にした穴穂部王子の大后(後の推古天皇)強姦未遂事件から、穴穂部王子を追い払い大后を守った功績を誇る三輪君逆を逆恨みして穴穂部王子が物部守屋らと誅殺を企てるまで、1年以上空いてしまうことになる。『日本書紀』ではこれら穴穂部王子と三輪君逆をめぐる一連の出来事は全て用明天皇元年(586)夏五月のことのように書かれており、山岸氏の造型している穴穂部王子の性格からして1年余も、穴穂部王子が我慢し続けたとはちょっと考えづらい。(以下続稿)