・敏達天皇十四年(3)
2月1日付(09)の続き。
この年を文庫版第七巻「厩戸王子 関連年表」にて確認して置こう*1。306頁14行め〜307頁1行めに、
五八五 | 敏達一四 | 一二 | 疫病が流行し、物部守屋ら仏寺、仏像を捨てる。 | |
五八五 | 用明 | 用明天皇(厩戸王子の父)が即位する。 |
と、同年に頁を跨いで敏達天皇の崩御と用明天皇の即位を示そうとして、少々変則的になっている。
さて、前回確認したように、『日本書紀』では翌年、用明天皇元年(586)のことになっている三輪君逆の殺害は、この物語では敏達天皇十四年(585)のこととなっている。
・文庫版第一巻203頁6コマめ、三輪君逆暗殺直後に、朝廷で厩戸王子の姿を見掛けた蘇我毛人の心内語に、
蘇我毛人:(そしてまた このことを12歳の王子が見通していたということが/なにかしらうそ寒い思いがするのだ)
とあって、厩戸王子の年齢(数え)からしても敏達天皇十四年のまま、年を跨いでいないものと思われる。
・文庫版第一巻216頁、もう少し時期を限定するに、この頁の蘇我馬子・毛人親子の対話により、敏達天皇十四年(585)十一月のことと特定出来る。
蘇我毛人:「ええ! 大嘗祭を延期するですって!?」/
蘇我馬子:「しかたあるまい 三輪君逆の事件の後 三輪の財産をめぐってゴタゴタが続いている今となっては…/それに都合よくといえば語弊があるが磐余の宮の造営も遅れている/今までに全く例がなかったというわけではない/11月の大嘗祭を来年の4月に延期することになった」
これで十一月以前のことと下限が設定出来るが、ここで2月1日付(09)に言及した、大嘗祭の打合せで池辺の宮に用明天皇を訪ねた蘇我馬子に、厩戸王子が脇から口を挟む場面、文庫版第一巻176頁3コマめから177頁(7コマ)を抜いて置こう。
厩戸王子:「ところで大臣どの/11日の大嘗祭までに磐余の宮は完成するのですか」/
蘇我馬子:ギクリ(そらきた)「は 急がせておりますが」/
厩戸王子:「大嘗祭といえば実質上の新大王の即位式/先の大王の幸玉の宮で行なうことだけはさけたいと父君は言っておられる」/
蘇我馬子:汗1滴「はい それは当然でございます …が 何分適当な宮を急ごしらえで建てるわけにもまいりませぬし/それ相当の格式を持った宮をということになりますと」/
厩戸王子:「言い訳を聞いているのではありません/できるのかできぬのか」/
蘇我馬子:汗3滴「は ははっ それはもう/で できましてございます」/
蘇我毛人:ゴクッ/
厩戸王子:ニッコリ「それでこそ大臣どの/先の大王の宮造りには三輪君逆が腕をふるいました/今 財政の腕であなたの右にでる者はおりませぬ たのしみにしております 大臣どの」/
蘇我馬子:汗1滴「はっ」(くっ してやられたわ だから わしはこの王子が苦手だというのだ)/
蘇我毛人:(これはすごい 大王ですらいいにくいことをズケズケと…/父上が苦手がるのも無理ない/しかもそれとなく先の大王の寵臣三輪どのと比較するあたり…/これでは宮造りに金をかけぬわけにいかぬではないか)/
この続きが2月1日付(09)に抜いた178頁1コマめ、蘇我毛人の心内語である。
それはともかく「11日の大嘗祭*2」と言っているところよりして、この会話は十一月になってから*3ということになる。この後、穴穂部王子がやってきて三輪君逆の誅殺を訴えるのだから、三輪君逆暗殺は十一月と特定出来る、……はずである。
しかしながら、そうとも断定し兼ねるのである。すなわち、そうすると、長くても10日くらいしか時間がなく「できるのかできぬのか」と期限厳守を言い渡しているのに、「急ごしらえ」を許さずに「金をかけぬわけにいかぬ」ように仕向けているのは、やはりおかしい。この「11日」は「11月」の誤りなのであろう。直前の175頁1コマめにある「五八五年九月」のことと思われる。
結局、この物語に於ける三輪君逆暗殺は敏達天皇十四年(585)九月から十一月の間、十月頃に設定されていると思われるのである。(以下続稿)