瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

学会誌の訃報欄(4)

 遺稿でも調べる機会でもない限り、B氏がどこまで突き止めていたかは分かりません。――改竄や錯簡は、これまで『C』に触ったことのある人のうち、『C』から言葉の用例を摘み食いしただけの人はともかく、『C』を真面目に自分の研究に援用しようと考えた人なら、みな気付いているはずのことなのです。そして従来の『C』の成立年に関する議論が曖昧な根拠によってなされていることにも、当然気付かされているはずです。しかし、それで新たな説が一向に提示されることがないままであるのは、従来の説の根拠薄弱たることを、改竄や錯簡を指摘しつつ問題にしたところで、それに代わる「じゃあいつなんだ」という説明が提示出来るほどのものが『C』からは出て来ないからなのです。先学が何も見付けられなかった『C』に、あのB氏だけが「分かったよ」と言っているなんて、――それは例によって(?)B氏の僻目で、何もないところにあり得べからざるものを見てしまっただけだろうと、常識的には(?)判断してしまうわけです。
 だから私は困惑しながら「はァ」「はぁ」と努めて気のない相槌を打ちながら、――先輩の話している材料だけではまた例によっておかしな話をさも大事のように話しているようにしか聞こえませんよ、と、正直に云えば冷笑していたのでした*1

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 そんなことを思い出して久し振りに、博士論文の準備段階で書いた、私の『C』の成立年に関する研究草稿を引っ張り出して見ました。若干の、従来挙げられていなかった根拠の追加はありますが、やはり従来の説を打ち破るようなものではありません。博士論文の1節としては良いのですが、単独の論文にはとてもならないような代物です。それに、結局博士論文には載せずに放棄した草稿ですから、ある程度のところまでは書いてあっても、詰めはまだまだです。
 そして、B氏が死んでいたことを知って、当時の自分の態度を反省するとか、そういう気持ちにはなれませんでした。やはり根拠があって初めて明確になるので、根拠の曖昧な話を聞かされて「それは凄い」「発表されなかったのが勿体ない」などという気持ちになるようなお人好しには、私はなれないのです*2
 B氏に遠慮して放置していた訳でもないのですが、私の『C』についての考証を今から纏めてみようか、という気分になりました。論文なら新しい説を立てられなければ書けないのですが、学会に所属しておらず学界の文脈に従う必要のない私は、今更論文という形態に拘泥しなくても良いので、問題点を挙げるだけで結局はっきりした結論は示せないでしょうけど、やってみようと思いました。
 ただ、このブログに出すのはしばらく先にしようと思っています。そのときには『C』の書名も明示して、私の命にも限りがあるのだから、もう逃げ回っていないで過去に調べた分は自らの名で示して置くべき、という考えにも傾きかけています。
 随分脇道が長くなりましたが「学会誌の訃報欄」についての話に戻しましょう。今の訃報欄には、名前しか出ていないのですが、以前は没年月日や年齢も示されていたかと思います。――ネット上にそういう情報が上がっていることも今は多いですが、出ていないこともあって、年を跨いでいたり(学会事務局の把握が遅れていたり)すると「訃報」欄に出ていても没年が確定させられなくなります。そもそも学会誌を見る人が少ないのですから、しっかりとした日付を示すべきだと考えるのですが如何。むしろ生年月日も示して、生没年と年齢が明確になるようにするべきなのではないか、とも思うのです。全く、年齢を隠すことにどんな意味があるのでしょうか。

*1:この辺りの、専門外の人が割合気安く、専門の人たちが慎重に構えて発言しないでいたことについて(専門の連中が共有している認識から自由であるため)大胆なことを言ってのけて、専門家がおかしいと思いつつも対案が示せない(そんな案がぱっと出せるのなら、とっくに論文として発表しているはずです)ので反論しづらいままに、それが何となく通説のようになってしまうという現象については、2013年2月10日付「謬説の指摘(2)」にも書きました。B氏の『C』に関する見解がそうだと断定は出来ませんが、電話口での曖昧な話を聞く限りでは、同じように聞こえてしまったのです。

*2:もし遺族によって遺稿が整理されて、発表の運びとなるならば、そのとき初めて評価が出来ることとなりましょう。