瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(54)

 以前にも書いたと思うのですが、国文学界では人の誤りを指摘しないで済ませることが、多いです。狭い世界ですし、やはり「先生」はプライドが高いので、理詰めに遺漏なく駄目なことを証明して批判したとしても、自分のことを駄目だと言っている説を嬉々として紹介して「参った!」などとは言わない訳です。言わざるを得なくなったとしても恨みが残る訳です。まぁ当り前です。ですから、批判するにしても下手に出て、聞き入れて頂かないといけない。そうでなければ、そんな礼儀も知らん奴の云うことなど、なかったことにすれば良い訳です。つまり、相手にしない。偉い先生が無視して別の説を唱え続けておれば、どこの馬の骨なんだか分からない若造(?)の説など、他の人たちも最初から相手にしなくても良くなる訳です。
 そこで、従来の説は特に批判せずに、――この説が成り立つのであれば、従来の説は成り立たなくなるな、と《分かる人が読めば分かる》ような書き方をせよ、きちんと就職するまでは。と言われたものです。けれども、研究職を初めから諦めていた私には、この念押しが利かなかったので、何故そんなことをせにゃならんのか、としか思えなかったのでした。それで、確かに「先生」のプライドは守られるでしょうけれども、本当に尊重しないといけないのは研究対象である作品の方で、研究者の「先生」ではないはずです。
 かつ、誰もがそんな事情通な訳がありません。森鴎外の研究者じゃなくても鴎外に言及する機会はあって、そのときに通説ではないけれども諸説吟味した結果自分はこの見解を採る、などという作業を一々やったりしない訳です。通説とか定説とか言われるものに一応従って置くことになる。偉い先生の御高説にそのまま従うことになるでしょう。
 本当は、専門の研究者が、両立し得ない説が提示されるごとに吟味を加え、両説の弱点・不明瞭なところを指摘して問題を明確にして見せないといけないのではないでしょうか*1。専門の人が読めば分かる、とは余りにも視野狭窄かつ投げやりな態度で、専門外から研究成果にアクセスしようとしている人を、誤った通説へと導きかねないのですから。
 ですから、下手をすると喧嘩になるし(喧嘩になるのが可笑しいと思うのですが)正しい説を唱えて置けばいづれ《分かる人は分かる》のだから、放置して置けば良い、――という態度には、賛成出来ないのです。そんなものは、尤もらしい建前に過ぎないでしょう。本当にそうなるのであれば、すぐに対応出来るはずのネット上で、昭和11年説や昭和15年説の取り下げがあっても良さそうなものですが、別にそんな動きはありません。細かくチェックした訳ではありませんが*2。……いえ、部分的に修正しても大抵はそこで辻褄が合わなくなるだけですし、既存の記事を消したらそこからリンク先に影響が出たりすることもあるでしょう。ですから、そういう記事を消せとか、訂正しろとかいうつもりはありません。そのままで良いのです。
 では、何がしたいかというと、昭和14年説を提示して後は「気付いたら直してね」みたいに待ち惚けているのではなく、積極的にあちこちに触れ回って煩がられるのでもなくて、――昭和11年説や昭和15年説の文献等を取り上げて、何故著者はこう書いたのか、どこがいけないのか、等を根拠を示しつつ論評して、個別に示して置こうと思っているのです。本に書いてあることは消去出来ませんし、比較してどちらが正しいか判定してもらうのも難しい(そんな暇もないでしょうし、ネームバリューからすれば断然「著者」の方に信用があるので)以上、違うのだということを一々書いて示して置くのが最善、とは言えないまでも次善の策だろうと思うのです。
 ネット上の情報で困るのは――これは「赤マント」に限った話としてするのではなく一般論としてするのですけれども――、何故か典拠を示さずにどこかから丸取りしているサイトが少なくないことです。何も足さずに丸取りしただけの、独自性のない記述を、出典も示さずに複数コピーされると、虱潰しに調べようとするにはそんなものまで一応点検しないと安心は出来ないので、手間が増えるだけで困るのです。中には出典を示さず自分で調査したかのようなコピペを連ねただけのサイトもありました。そんなことをして、どうかするのでしょうか。典拠となった本・サイトの調べに感心して広めたいと思ったのであれば、典拠を明示するべきで剽窃のような振舞をするべきでないでしょう。さらには典拠を誤読して、或いは盗用隠しのために下手なリライトをして、妙な説を広める原因になってしまうような場合も、あるようです。
 こんなことを書いたからといって、別に私の調べが剽窃された例に気付いて憤怒に震えている、とかいう訳ではないのです。今のところそんな例には気付いていません*3。もちろんこんなに普通よりも細々と、普通なら掛けないような手間を掛けて書いた記事をコピペしても浮いてしまいますので、そういうことになっていないだけなのでしょうか。
 とにかく、こうした典拠不明(典拠隠匿)のコピペが発生して流布した経路を辿るためにも、基礎作業として、関連文献を網羅して、その一々に検討を加えて置く、という作業は必要だと思うのです*4。正しい年代を根拠に従来の説を検討するので軒並み批判らしくなってしまいますが、批判は不快に思われるからと回避する行き方を良しとしていない以上、仕方がありません。違う説を残らず無視するのではなく、残らず取り上げて置こうという寸法です。それを察して、連載(?)開始時の10月24日付(03)の文体を常体から敬体に書き換えたのでしたから。(以下続稿)

*1:最近やたらと論文のジャッジメントとかレフェリーとか云っているのですから。しかしそういう雑誌とて、本当に専門の人が審査に当たる訳ではない(細々とした研究課題の全てに精通している人などいないでしょうから)ので、結局のところ見たところ尤もらしく書けていれば通してしまうことになるのではないでしょうか。余り具体的な話はしくにいのですけれども。

*2:それに「赤マント」は国文学界の課題でも何でもないですね、だからここは一般論です。況や国文学界をや。

*3:2011年10月21日付「七人坊主(08)」にて参照したTO7002のブログ「実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話」の2008/11/19「八丈島の忌み話」を丸取りしたブログを目にしたことはありますが。

*4:際限がないので取り上げるのは原則、本や雑誌に出ているものとします。ネット上にあるものも大抵はそこに由来しているでしょうから。もちろん、従来知られていない文献を指摘したものや体験者の証言等は、ネット上のものも積極的に取り上げて行くつもりです。