昨日、仕事やらブログ更新やらを終えて(いや、仕事は途中だった)風呂に入ろうとパソコンを閉じようとして、ブログにコメントが付いていることに気付きました。――毎日何らかの記事更新を(誰から強制された訳でもないのに)日課にするとなると、コメントのやり取りをするとそれだけで記事と同じくらいの労力を費やすであろうから、コメント欄では返事をしないという方針を立てていて、実際にそうでないと回せないように思っているのですが、そのせいか殆どコメントはありません。少々淋しいような気もするのですが気楽は気楽です。
それはともかく、そのコメントについては、コメントを下すった広坂朋信のブログ「恐妻家の献立表」の、最新記事である2016-01-17「■昨日の晩ご飯」のコメント欄に仮に私見を述べました。これを承けて広坂氏が2016-01-20「■懺悔(赤い半纏について)」に全体的な経緯をまとめておりますので、ここでは繰り返しません。
とにかく、広坂氏にコメントの返信をしてしまって、風呂に浸かりながら、――私も何度も借りてはそのまま返却してしまっている『怖い話はなぜモテる』について、好い加減にメモくらいは取って置こうと考えて、ふと思い立って記事を書き始めたので、……私の引いた大体の筋はこれまで縷々述べた通りなのですが、実は十分整理し切らないうちに投稿してしまったんではないか、そんな気がして来たのでした。
ところで、私が『怖い話はなぜモテる』を最初に借りたのは、今、読書及び図書館利用の記録のメモを検するに2013年3月8日で、まだ昭和14年(1939)の赤マント騒動に気付く前でした。すなわち赤マントの調査を始める前から、この赤い半纏の話には注意していて、それは当ブログの端々で匂わせている常光徹への対抗(?)意識からも察せられるでしょうが、私は学校の怪談には一方ならぬ思入れがあって、常光氏の『学校の怪談』のやり方を当時から快からず思っていたので、いつか反論しつつ己の「学校の怪談」体験を述べようと思っておったのです*1が、そうすると母校や自分の学校時代についてかなり具体的に述べないといけない。けれども、まだそういう自分語りを堂々とするほどの度胸はないので、先延ばしになっていたのですが、気持ちの中には常にあって、2013年7月24日に『MYSTERY NIGHT TOUR 稲川淳二の怪談 Selection 13』を借りたのも、1月17日付(3)では「「赤い半纏」は「赤いマント」との関連から触れざるを得ないので」などと書いてしまったのですが、やはり昭和14年の赤マントに気付く前なので、赤マント事件とは関係なく「学校の怪談」のルーツに関する興味から『怖い話はなぜモテる』の粗筋をより詳しく述べたものとして借りて聞いてみたのでした。
ちなみに赤マント事件についての調査を「赤いマント」と題してやったのは、高校時代に同級生が中学時代にそのまた同級生の出身小学校の話として聞かされたのが「赤いマント」という話だったからなのです。しかしながら、調べてみるとこれはなかなか大掛かりな調査になると気付いて、早い段階で題を「赤マント」に変えようと思ったのですが、例の「学校の怪談」への変な思入れからそのままにしてしまったのでした。
さて、昨晩浴槽で思い浮かんだ「赤い半纏」の整理不足ですが、草臥れましたのでこれについては次回述べることとしましょう。風呂に入って来ます。(以下続稿)