瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

子不語怪力亂神(2)

 1月20日付「赤い半纏(06)」に述べたように、久し振りのコメント投稿を承けて昨日まで、後で触れるつもりだった「赤い半纏」の流布についての憶測を、取り敢えず手持ちの材料で述べてみました。ここで1月19日付「赤い半纏(05)」に戻って、その続きで当初(6)として準備していた記事を上げて、ネタ切れ(及び借りていた資料の返却期限)になりますので一先づこの話題からは離れようと思っていたのですが、いろいろ書いているうちに長くなってしまったので、別の題の記事として独立させ、1月14日付(1)の再考として上げてみることにしました。

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 稲川氏の語りは、耳から聞く限りでは違和感を覚えない演出がなされている、というか、覚えさせない迫力があるというか、私は耳で聞いても駄目なのですけれども、かなり尤もらしい辻褄合せがなされているので、耳で聞いている限りでは矛盾に気付くこともないでしょう。しかしこの辻褄合せがもともと合理的とは云えない話をより妙な按配にしているような気がするのですが、いろいろとボヤかした(普通に考えればプライヴァシーに配慮して分かっていることを全て語るのを避けた、と聞き手は受け取るような)言い回しと相俟って、却って怪談語りとしての効果を上げているようにも思うのです。
 しかし、私は話には尾鰭が付くものだから、その尾鰭のない「本当」のところはどうなのか、という関心から怪異談を眺める癖が付いてしまっているので、大袈裟な演出がなされた稲川氏の話は苦手なのです。『新耳袋』の現場を突撃取材した『新耳袋殴り込み』という本がありますが、出来れば誰か『稲川怪談殴り込み』をやってくれないでしょうか。
 ところで『新耳袋』については2011年4月9日付「今野圓輔編著『日本怪談集―幽霊篇―』(3)」に触れたことがあります。当時に比べれば内容も分かって来ましたが、やはりきちんと読まないままです。――以前立ち読みしたときに、場所と個人名が隠された個人的な体験が並んでいるのを見て*1、著者は当人から取材しているにせよ、そこが見えて来ないと私にはどうもピンと来なかったのです。
 常光徹学校の怪談』が嫌なのも同じことで、もちろん差し障りがあるからでしょうけど、学校名や報告者の氏名が隠されている*2のが、読んでいてどうも雲をつかむような印象を受けてしまうのです。
 こんな風に書くと、体験者から取材した『新耳袋』と、どこの学校にも似たような話があって体験した者になんかどう捜したって会えそうにない「学校の怪談」が一緒になるのか、と思われそうですが、どちらも特定の人や場所に付いているところに本当らしさがあるので、分かるはずのそこのところがボヤけてしまうとどうも駄目なのです。そこに妙な文飾が加えられていたりすると、もういけません*3
 その点、松谷みよ子『現代民話考』には文飾を排除しようという意識があって*4あまり大袈裟にはならず、さらに個人情報だのといったことへの配慮があまり問題にならなかった時期に編纂されたので、今だったら隠蔽されてしまうであろう場所や人名もはっきり示されています。
 私が昭和59年(1984)、小学6年生の冬から断続的に続けて来た怪異談の聞き書きを平成5年(1993)、大学3年生の頃*5に止めてしまったのも、こういった場所や人名を明確にしない怪談の氾濫に、ある意味絶望したから、だったかも知れません。……いや、違うな。書いているうちに違うことに気付いた。――後から当時の心情を推し量って書いてみると、こんな風に変な思い付きを述べることになってしまいます。ですから、本人の回想であってもそのままには信用出来ません。本人に嘘を付くつもりがなくてもそれは「回想」であって「事実」と同じにはなりません。「傍証」がない限りそれは22年後にいろいろなことを忘れて、逆におかしな思い違いが加わっているかも知れない「回想」なのです。
 こう考えてくると、いよいよ私も自分の怪異談への接し方の実践たる、中学・高校時代の怪異談聞き書きをそのままの形で公開するべきなのではないか、という気がするのです。しかし、場所は思い切って示すとして、個人名は自主規制せざるを得ないだろう、と思うと、どうも躊躇されてしまうのです。(以下続稿)

*1:そればかりではないことも分かって来ましたが、たまたまそういうところを見てしまったわけです。

*2:講談社KK文庫版の『学校の怪談』シリーズでは、巻末に情報提供者の氏名は纏めて示してありますが、どの話が誰の報告なのだかは全く分かりません。

*3:学校の怪談」によくある、嘘としか思えない話であっても、話し手がさかしらな演出を加えずに、真面目に聞いた通りを話そうとしていれば、私には非常に好もしく思えるのです。

*4:但し、2013年5月1日付「御所トンネル(4)」及び2013年5月2日付「御所トンネル(5)」に指摘したように、先行文献から引用した話の中には下手に端折り過ぎて、話の内容を取り違えてしまったような例もあります。

*5:平成2年度の1年間、浪人しています。浪人時代のことは2014年3月24日付「楠勝平『おせん』(1)」などに回想しました。