瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(11)

・地域批評シリーズマイクロマガジン社
 この記事も昨日の、10月27日付「八王子城(16)」と同趣旨で書いております。
 私は別に大和田刑場跡に興味がある訳ではなくて、昨日の八王子城が、学部生時代(30年前)その怪異談について篤実な郷土史家がしっかり取り上げていることに心惹かれた椚國男『戦国の終わりを告げた城』を再見する機会があったことで当ブログに取り上げて見たと云うのと同様、大和田刑場も八王子市の広報の連載「ふるさと八王子」を取り纏めて市が刊行した小冊子『ふるさと八王子』に、怪異や供養のことが堂々と(?)書いてあることに妙に心惹かれて取り上げて見たのでした。
 ただ、この大和田刑場と云うのが、どうも良く分らんのです。
 ここではまづ、Wikipedia「大和田刑場跡」項を見て置きましょう。この項目は2015年12月30日にHN「ライジング大宮」によって新規立項されました。そして、現在はこの立項当初の記載内容が減らされて、ごく簡単なものになっております。赤字は「ライジング大宮」の投稿にあってその後削除された箇所青字はその後加筆された箇所茶色は訂正箇所です。すなわち、青字部分を除けば立項当時の本文、赤字部分を除いて茶色箇所を「北」に訂正すれば現行本文になる訳です。

大和田刑場
大和田刑場(おおわだけいじょう)は、東京都八王子市にあった刑場。跡地にはカレッジタウンが建つ。江戸の三大刑場に数えられる。
概要
八王子市大和田町大和田橋詰付近の浅川河原に位置していた。元禄期には高さ五尺の塀が設置されており、牢屋が設置されていた[1]。刑場跡地には工場が建設され操業していたが、事故が相次いだことから1954年(昭和29年)に大和田刑場跡の慰霊碑を建立した。その後工場は閉鎖し、跡地にはカレッジタウンが建設された。慰霊碑は撤去され現存せず、往時を偲ぶ物は何も無い。江戸時代には鈴ヶ森刑場、小塚原刑場と並び三大刑場として知られていた。
参考文献
脚注
^ 新八王子市史 資料編3

関連項目
鈴ヶ森刑場
小塚原刑場


「付近の浅川」とのキャプションが附された写真はHN「ライジング大宮」以来のものです。カレッジタウンが写っていたら本文同様削除されていたことでしょう。もう1つ目立つのは「江戸時代」に「江戸の三大刑場」だったとの記述が削除されていることです。
 鈴ヶ森は八百屋お七や、権八小紫の歌舞伎でもお馴染みですし、小塚原は杉田玄白蘭学事始』に描かれた腑分けが行われた場所として知られていますが、大和田刑場など聞いたことがありませんでした。鈴ヶ森と小塚原は江戸市中から徒歩でも日帰り出来るような場所にありますが、大和田だけエラく離れております。その上、小塚原や鈴ヶ森と違って、遺跡が全くと云って良いくらいにありません。
 記録も殆どないようです。いえ、江戸時代当時の資料と云うのも、あるんだかないんだか、私がまともに調べていないから、探し方が拙いから見付けられないのかも知れませんが、とにかく目にしていません。
 国立国会図書館デジタルコレクションが全文検索出来るようになった頃、「大和田刑場」で検索して見たのですが、全くと云って良いくらいヒットしませんでした。周辺のキーワードで検索してみると、幾つか引っ掛かりましたが、余り具体的な記述をしたようなものはありません。
 処刑された人間も、大久保長安の伜とか、大鳥居逸兵衛とか、江戸時代も極初期の人物の名が出て来るばかり*1で、江戸時代後期の甲州街道を描いた古絵図にも描かれておりません。尤もそんなものがあるのであれば「付近の浅川」の写真なぞ載せなくても良い訳です。
 そこで、私は早々に大和田刑場の歴史を手繰るのは諦めて、工場がいつ建てられて、いつ頃なくなったのか、地図・航空写真・資料で確実に辿れるところを検証した次第です。大和田刑場とその跡地(とされる場所)に建った工場に関しては、川奈まり子が随分な与太を書いているので、道了堂に関する記述とともに遠からず根拠に基づいて反論するつもりですが、なかなかに面倒なのでなかなか着手する気持ちと時間の余裕が持てません。
 今回、改めて国立国会図書館デジタルコレクション等で「三大刑場」でも検索して見たのですが、板橋を含めて「三大刑場」としたものが2つばかりヒットしただけでした。大和田刑場を含めているのはネット情報ばかりです。「二大刑場」であればかなりの数がヒットして、もちろん鈴ヶ森と小塚原の2つです。
 厳密に調べた訳ではありませんが、どうも大和田刑場を含めて「江戸の三大刑場」と云うのがネット上で広まりだしたのはこの10年ほどの間らしいのです。まるで道了堂の解体理由を「不審火で焼損したため」とする説が5年ばかりのうちに蔓延したのと同じ現象のように見えます。道了堂については Wikipedia「道了堂跡」項に正確な解体年と解体理由を加筆して置きましたが、反論も肯定的な反応もありません。まぁ無視された恰好です。
 それはともかくとして、このマイクロマガジン社の「地域批評シリーズ」の記述は、①B5判の刊行が2012年3月ですから大和田刑場「三大刑場」説の早い時期の例と云うことになりそうです。もちろん先行する文献が存在するはずですが、2017年10月の②文庫版とともに、本書がこの説の流布に与って力があったかと思うのです。さてどうでしょう。
 大和田刑場に触れているのは10月26日付「道了堂(123)」に見たコラム「八王子ミステリーツアー」で、①52頁左11~17行め②92頁10行め~93頁1行め、改行位置は①「/」②「|」、句読点は②は全て全角。

 品川区にあった鈴ヶ森、荒川区にあった小塚原/と並んで江戸三大刑場と呼ば|れたのが、八王子駅/の北側にあった大和田刑場だ。先のふたつの刑場/には今で|も供養碑などがあるが、大和田には刑場/があったことを伝えるものが残されて|いない。今/ではただの住宅地だが、昔のことを知っていたら/ちょっと気味が悪|い。‥‥


『ふるさと八王子』に「三大刑場」を謳っていないのは、当時そんなことになっていなかったからでしょう。或いは、2022年11月8日付(02)に見た、だーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』改訂版が、大和田刑場跡を紹介するに当たって鈴ヶ森と小塚原を引き合いに出した辺りから、この二大刑場に匹敵する規模のものが大和田にもあったかのような刷込みが生じてしまったのではないか、と、今の私は疑っているのです。見当外れかも知れんけど。(以下続稿)

*1:10月30日追記2022年12月1日付(10)参照。それぞれの根拠と疑問点は追って記事にする予定。