・クリネックスティシューのCM(1)
さて、私は昭和59年度から昭和61年度まで、中学生の3年間を横浜で過ごしました。但し市域の南部で暮らしていたので、この怪人が乗っていたらしい東急線には当時、殆ど乗ったことがありません*1。意外に(?)活動的な少年だったので活動範囲は横浜市の中区・西区・保土ヶ谷区・旭区・南区・港南区・磯子区・金沢区・戸塚区(当時)、それから鎌倉市・逗子市・葉山町、横須賀市の北部と西海岸、藤沢市の南東部辺りまでで、田園都市線は殆ど意識に上りませんでした。藤沢も自転車で出掛けたので、小田急線は殆ど利用したことがありません。小田急線に乗る機会はと云えば、父と夏休みに丹沢登山に行き、横浜駅から相鉄線で海老名駅、小田急線に乗り換えて伊勢原や秦野まで乗ったくらいで、町田や中央林間には行く用事もなく通過することもありませんでした。渋谷や新宿にもたぶん行ったことがありません。
それはともかく、中学を卒業すると既に単身赴任していた父を追って(すなわち3つ違いの兄と私の卒業を待って一家で)兵庫県に移り、県立高校に進学しました。高校生活は昭和62年度から平成元年度までの3年間、高校3年生の平成2年(1990)1月、第1回大学入試センター試験を兵庫県で受験しています。
なんでこんなことを書いたのかというと、ギンティ小林の以下の記述に引っ掛かったからです。――すなわち昨日の続き、小林氏が自分が当時どのくらい「画期的な恐がり」であったかを示すために言及した都市伝説に関する記述です。単行本『新耳袋大逆転』86頁16行め〜87頁5行め・文庫版『新耳袋殴り込み 第二夜』74頁16行め〜75頁4行め、
当時、松坂慶子*2が出演したクリネックス・ティッシュのCMがあった。英語のアカペ|ラの歌をバッ/クに松坂慶子と赤鬼の扮装*3をした子役が戯れている内容だが、放映されて|しばらくすると、「あのC/Mは呪われている」という噂が巷*4で流れはじめた。
関係者が続々と不審な死を遂げている。子役が発狂死した。松坂慶子は情緒不安定に|なり、仕事が/できない状態になっている。あのCMに使われた歌が悪魔崇拝の唄*5らし|い。僕は、そんな都市伝説を/真に受けては毎晩、布団の中で震えあがっている肝の小さ|い男であった。
さて、私は実家ではテレビをあまり見なかったので、このCMも見た記憶がないのですが、横浜の中学でこのCMの噂で盛り上がっていたのは覚えています。既に私は、親戚や同級生などから怪談の聞書きをしていましたが、当時はメディア絡みの噂は毛嫌いしていたので、詳しくは聞きませんでした。クリネックスではなくスコッティと記憶していたくらいです。それはともかく、兵庫県の高校ではこのCMで盛り上がった記憶がありません。すなわち、昭和61年(1986)秋のことで間違いないと思われるのです*6。
小林氏は、このクリネックスのCMを中学3年生の記憶として記述しています。
だとすると、小林氏も昭和61年度に中学3年生だったはずです。そこで、単行本奥付の上部の著者紹介を見てみると、
執筆:ギンティ小林(ぎんてぃこばやし)
1971年生まれ。東京都出身。ライター。‥‥
とあります。文庫版のカバー表紙折返し上部にも、
ギンティ小林/(ぎんてぃ こばやし)|
1971年生まれ。ライター。‥‥
とあります。Wikipebiaには生年月日が「1971年5月5日」としてあります。特殊な事由がない限り、小林氏は私と同じ学年で、昭和59年(1984)4月に中学に入学して、昭和62年(1987)3月に中学を卒業しているはずなのです。(以下続稿)