ついでだから高1の遠足のことも書いて置く。
姫路で、現地集合だった。
集合時間よりも早く着いたのか、大通りに面したあまり大きくない本屋で岩波文庫の『本朝二十不孝』と、姫路の古い絵葉書を集めた横長の写真集、それから橋本政次(1886〜1973)の『姫路城の話』を買った。
- 作者: 井原西鶴,横山重,小野晋
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1963/05/16
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (3件) を見る
しかし、姫路でそれ以外に何をしたのか、その記憶がない。城には行ったろう。兵庫県立歴史博物館を見学したように思う。帰りの電車は同級の連中と一緒に乗って、徒歩通学の私には学ラン姿で電車に乗るのが新鮮だった。
卒業後、父の転勤に従って東京に出ることになっていた私は、大学入試に全て失敗した上で兵庫県を離れた。その後、極力兵庫県について、――高校野球は、高校時代に全く縁のない世界だったから構わないが、それ以外のことは、見聞きしないようにして過ごして来た。思い出したくないからではない。映像によって自分の記憶が塗り替えられてしまうことを怖れたのである。
映像は、他人が撮したものであって、私の脳裏に焼き付いているものとは違う。私が見たのは、その季節、その時間、その気温の、その場所なのである。
だから、写真も撮らなかった。
ところが、ここ数年、昔のことが思い出せなくなって来た。塗り替えるも何も、そのもとが見当たらなくなって来たのである。高校時代を過ごした町を舞台にしたTVドラマなどを眺めても、平気である。対峙する記憶がないのだ。こんなことになるのなら、見たものを一通り写真に収めて置けば良かった*1。いや、何かのきっかけがあれば、埋もれている記憶が芋蔓式に思い出されるのかも知れない。しかし、果たしてそれが、混じりけのない高校時代の記憶であるかどうかは分からない。
放課後によく、用水の取水口へ下りる石段にぼんやり座って、西日にきらめく川面を眺めたものだったが、この石段も今はないようだ。その近くにあった自動車が通れなかった橋も、今はゆったりした2車線に、もとの橋の幅ほどもある歩道が両側に付いている。
いや、やはり忘れてはいない。あの山の形も、川の水も、橋の灯りも、少し寂れた通りの風情も、攀じ登った裏山の崖も、滝も、堰堤も。それが随分断片的になってしまっただけだ。四季折々に見たはずなのに、ある1点に集約されて、その輝きも次第に褪せて来ている。
高校を卒業してから26年が経った。
高校時代の私は恥ずかしくて学園ドラマなど見ていられなかった*2が、抵抗がなくなった。女子高の講師を始めた頃、年の離れた妹か年の近い姪に接しているような気分だったが、辞める頃には娘に対しているような気分になった。私の中でも溌剌としたものが失われて、それは、自分の高校時代の記憶が遠ざかってしまったことと関係しているのかも知れない。――久し振りに『鹿男あをによし』でも見て、その気分の補いをして見よう、そんな気分になったのである。(以下続稿)