瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

昭和50年代前半の記憶(3)

 庭の梅の木から実が落ちるようになって、昨日今日は小粒の実が200粒ほど落ちていた。拾って水洗いして虫が入っていない実を硝子瓶で蜂蜜漬けにするのである。で、今日は朝、拾う余裕がなく、帰ってまだ明るかったので盥に拾い集めて、真っ直ぐ生えない梅の幹に手を掛けて、その下に散らばっている実を拾って、戻ろうとした時こめかみに幹から少し突き出た、折れた枝の先を刺してしまった。鮮血が頬まで流れて、かろうじてそこで食い止めたのでワイシャツを汚さずに済んだが、これで生え際の後退が進まないか心配である。それはともかくとして。

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 一昨日からの続き。
 この家の便所と風呂のことは、2013年2月21日付「七人坊主(38)」に書いたことがあった。当時、シャワーが錆び付いていたのだから、新築ではないのだが、どのくらい経っていたのだろう。下の方に付いていた栓を捻っても水は出なかったと思う。しかし試したことがあったような、なかったような、……記憶がない。使用可能だった頃、お湯は出なかったのだろうか。
 子供部屋の東は車庫になっていて、車庫と云っても簡単な壁と屋根を付いただけのものだったと思うのだけれども、この車庫か、子供部屋の前のベランダで、十姉妹を飼っていた。
 父は子供の頃に、生家裏の寺の参道で近所の子供たちと徒競走していて、突然飛び出してきた寺で飼っていた犬に膝を咬まれたとかで、犬を飼おうという話は一度も出なかった。私も、北隣のTake君の家で犬を飼っていて、その犬が死んだのだが、そのとき、いつもは鷹揚なTake君が泣いて泣いて、死骸に抱き付いて「まだあったかい」と叫びながら感情を露わにしているのを見て、こんなに気持ちが入ってしまうものは私には飼えない、と思ったものだった。
 父の生家では猫を飼っていて、冬の夜など、猫を布団に請じ入れて湯たんぽ代わりに重宝していた、とのことで、猫を飼いたがっていたが、都会育ちの母は、どこを歩いていたのか分からない猫を布団に入れるなんて嫌だ、と云って許さなかった。
 兄が兎やハムスターを同級生からの紹介で飼っていたが、それは兄の物で私は触らなかったので、殆ど記憶がない。私は父に小鳥の世話を教えられたので、以後専ら四つ足ではなく鳥の面倒ばかり見てきて、今も背黄青鸚哥を3羽飼っている。背黄青鸚哥を飼うことになったのも事情があるのだけれども、それはここでの話ではないから今は述べない。
 昨日、子供の頃のことを書いていて、絵に描いたように幸せな家だったみたいになってしまったので、何だか妙な気分なのだが、じゃあ何でこんなに家庭的に恵まれながら、醒めて捻くれた大人になってしまったのか、と云うと、この土地から離れたときに、私は過去を持たない子供になったからである。――私が無邪気に子供をしていられたのは、この小学2年生までだったのである。
 あのままあそこで高校くらいまで過ごせたら、もっと素直になれたのではないか、と、夢想したりもする。
 その後、兵庫県に引っ越して、私は物心付いて後に自然に身に付いていた方言を散々馬鹿にされた。それで苦労して3年かかって漸く関西弁が身に付いたように思われた頃に、今度は横浜に引っ越した。すると今度は関西弁を馬鹿にされた。……いや、私に大阪藝人のような愛嬌があれば、吉本が全国区になってしまったように、私も関西弁のまま受け容れてもらえたかも知れない。しかし、私は生粋の関西人ではない上に、至って真面目人間だったから、言葉だけ関西弁を操っても面白くも何ともない。それで結局私は、自分の喋る言葉に代表される、身に付けてきた過去を自ら否定する。そんなことを小学生のうちに2度も経験して、諦めの早い、忘却されることを前提に物を考えるような、ちゃらんぽらんな、その分気楽な人間になってしまった*1。幼馴染が1人もいないから、過去を知る者はいない。誰も本当の私を知らない。まぁ、小学2年生までの私が本当なのかも、実は分からないのだけれども。――横浜から兵庫県に移って高校に入学したとき、同級で親しくなった者に中学時代の友人を紹介されて、それが当時青年誌に連載されていた「孔雀王」と云う漫画にかぶれて密教に凝っていたのだけれども、それで顔を見れば大体分かる、と云うようなことを言っていたのだが、私のことは「こいつは分からん」と思ったのだそうだ。まぁ、それはこれまでの私の閲歴が自己否定の連続だったから一見分からなかっただけで、じきに大した実質もないのだと見抜かれたらしく、そいつとは大して親しくもならなかったのだけれども。
 けれども、Take君や、幼稚園や小学2年生までの友人たちとその後も友人であったら、それで窮屈なこともあったろうが、こんな気楽さに逃げ込まなくても良かったかも知れぬ、と思う。異性を意識するようになっても、まぁ一風変わった、まるで恰好良くないと自覚していた上に、間違って相手が受け容れてくれてもまた3年で引っ越すことになると思えば、それは失う過去がこれまで以上に大きくなることを意味するだけなのだから、全く積極的になれなかったのである。
 小学2年生まででは(今の餓鬼は随分女の子とでれでれしているらしいが)女子とは対抗心はあっても遊んだりはしなかったから、クラスの女子のことも殆ど覚えていないのだけれども、――1人だけ、家の西の通りにあった家の子だったか、まだ幼稚園に行くか行かないかくらいの女の子が、何故か小学2年生の私のことを随分慕って「■っくん、■っくん」と口癖のように呼んでいたのである。それで私が引っ越してしまってから、その子が「■っくんは? ■っくんは?」と繰り返していたと、近所の人も余程印象深かったのであろう、母に知らせてきたことがあったが、もう名前も顔も思い出せない、話としてしか記憶していないそんなことが、一つ所に落ち着いておればまた違った青春があったかも知れない、などと云う夢想を、私になさしめるのである。(以下続稿)

*1:2月23日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(15)」に、中学時代に随分あちこち出掛けていたと書いたが、人と一緒にいるより一人の方が気楽だったからである。4月2日付「万城目学『鹿男あをによし』(2)」に書いたように、一人で、内に籠もるのではなく外に発散させるのが、本当に心地よかったのである。