・将門伝説
3月31日付(06)にて「詳細は別に記す」と予告した、「よみがえる伝説の怪異」の章の「将門伝説」について、初版が6頁(105〜110頁)であったのが改訂版は8頁(95〜102頁)となっている、その増補改訂振りを確認して置こう。
「目次」には初版5頁2行め「将門伝説/八王子市ほか……〈切られた首が目を見開いて大笑い、/白い光を放って飛び去った 〉………………………… 105」とあり、改訂版4頁5行めは数字が「95」に変わっている。
1頁めは一致、なお見出しの下の「〜ぞくぞく度〜」は人魂1つ。
2〜4頁めも一致。
5頁めは下段の写真と上段本文の7行めまで一致、但し4行め「青梅」に初版には振仮名がないが改訂版には「お うめ」と振られている。
隷書体3行取りの見出しを列挙するに1頁め上段1行め「まつられているのは将門の男根」、2頁め上段4行め「首塚の祟りで死者」、4頁め上段7行め「将門は奥多摩の山中で生き延びた!?」、初版はここまでだが改訂版はさらに6頁め下段1行め「廃社となって再建された将門神社」が増補されている。
2〜5頁め下段の写真も共通するが、下にゴシック体左寄せで入っているキャプションも引いて置こう。2頁下段「ふもとからはわからない山中にある将門明神。集落を見下ろすように建つ」、3頁下段「この中に将門の男根(石)が……開けようとしたが鍵がかかっていた」、4頁め下段「将門明神にあった不気味な絵」、5頁下段「青梅の名の元になった金剛寺の梅」。
それでは、書き換えられている5頁め8行め以下、まず初版109頁上段及び110頁上段を抜いてみよう。
たとえば、奥多摩町棚沢にも将門神社/がある。ここには将門屋敷もあったとい/う。山梨県との境にある七ツ石山は、将/門の七人の影武者が討ち死にして石とな/った山、などの言い伝えもある。*1
また、とくに有名なのが青梅市の金剛/寺だ。乱を起こす前に、青梅を訪れた将/【109上】門が一本の梅の枝を折り、「もし願いが/かなえばどんどん育って大樹となるだろ/うし、かなわなければ永久に実がならな/いだろう」と言った。するとその後、梅/は枝いっぱいに花をつけ、将門の勢いも/ますます盛んになった。喜んだ将門がそ/の地に建立したのが金剛寺だという。*2
しかし、将門が乱に敗れると、実はな/るのだが、いつまでも青かった。不思議/に思った村人が青梅と呼び、いつしかそ/れが村の名前となった。
こうして地名にまでかかわっているの/は、多摩の人々の中にいかに多くの将門/ファンがいたかを物語っている。
初版6頁め(110頁)下段は略地図で改訂版8頁め(102頁)上段にそのまま掲載されている。
さて、改訂版の5頁め(99頁)8行め以下は、まず青梅の金剛寺について次のように記す。異同を太字にして示した。
なかでもとくに有名なのが青梅市の/金剛寺だ。乱を起こす前に、青梅を訪れ/た将門が一本の梅の枝を折り、「もし願/いがかなえばどんどん育って大樹になる/だろうし、かなわなければ永久に実がな/らないだろう」と言った。*3
するとその後、梅は枝いっぱいに花を/【99上】つけ、将門の勢いもますます盛んになっ/た。喜んだ将門がその地に建立したのが/金剛寺だという。*4
しかし、将門が乱に敗れると、実はな/るのだが、いつまでも青かった。不思議/に思った村人が青梅と呼び、いつしかそ/れが村の名前となったといわれている。
そして東京都西多摩郡奥多摩町棚沢の将門神社については最後、100頁下段〜101頁上段に「廃社となって再建された将門神社」として、追加取材の成果を盛り込んで詳しく述べられている。
100頁上段右7行分の写真にはキャプション「杉木立の中の将門神社鳥居」、101頁下段の写真には「将門の妻をまつった御幸姫観音像の前で熱心に営まれる例祭」のキャプションがある。本文中には御幸姫観音像についての記述はないが、棚沢の将門神社の境内にある、将門神社再建時に建立された石像である。102頁下段にはこの将門神社周辺の略地図が追加されている。
最後に、101頁上段の最後の段落(10〜14行め)を抜いて置こう。
神社の南にあたる多摩川沿いの平地に/は将門が屋敷をかまえたと伝えられ、今/でも「将門っ原」と呼ばれている。千年/以上も前に死んだ将門は、多摩の人々の/心に今なお生き続けているのである。
七ツ石山の言い伝えは、改訂版には見当たらない。(以下続稿)