瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

だーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』(10)

・将門伝説
 3月31日付(06)にて「詳細は別に記す」と予告した、「よみがえる伝説の怪異」の章の「将門伝説」について、初版が6頁(105〜110頁)であったのが改訂版は8頁(95〜102頁)となっている、その増補改訂振りを確認して置こう。
 「目次」には初版5頁2行め「将門伝説/八王子市ほか……切られた首が目を見開いて大笑い、白い光を放って飛び去った    ………………………… 105」とあり、改訂版4頁5行めは数字が「95」に変わっている。
 1頁めは一致、なお見出しの下の「〜ぞくぞく度〜」は人魂1つ。
 2〜4頁めも一致。
 5頁めは下段の写真と上段本文の7行めまで一致、但し4行め「青梅」に初版には振仮名がないが改訂版には「お うめ」と振られている。
 隷書体3行取りの見出しを列挙するに1頁め上段1行め「まつられているのは将門の男根」、2頁め上段4行め「首塚の祟りで死者」、4頁め上段7行め「将門は奥多摩の山中で生き延びた!?」、初版はここまでだが改訂版はさらに6頁め下段1行め「廃社となって再建された将門神社」が増補されている。
 2〜5頁め下段の写真も共通するが、下にゴシック体左寄せで入っているキャプションも引いて置こう。2頁下段「ふもとからはわからない山中にある将門明神集落を見下ろすように建つ」、3頁下段「この中に将門の男根(石)が……開けようとしたが鍵がかかっていた」、4頁め下段「将門明神にあった不気味な絵」、5頁下段「青梅の名の元になった金剛寺の梅」。
 それでは、書き換えられている5頁め8行め以下、まず初版109頁上段及び110頁上段を抜いてみよう。

 たとえば、奥多摩町棚沢にも将門神社がある。ここには将門屋敷もあったという。山梨県との境にある七ツ石山は、将門の七人の影武者が討ち死にして石となった山、などの言い伝えもある。*1
 また、とくに有名なのが青梅市の金剛寺だ。乱を起こす前に、青梅を訪れた将/【109上】門が一本の梅の枝を折り、「もし願いがかなえばどんどん育って大樹となるだろうし、かなわなければ永久に実がならないだろう」と言った。するとその後、梅は枝いっぱいに花をつけ、将門の勢いもますます盛んになった。喜んだ将門がその地に建立したのが金剛寺だという。*2
 しかし、将門が乱に敗れると、実はなるのだが、いつまでも青かった。不思議に思った村人が青梅と呼び、いつしかそれが村の名前となった。
 こうして地名にまでかかわっているのは、多摩の人々の中にいかに多くの将門ファンがいたかを物語っている。


 初版6頁め(110頁)下段は略地図で改訂版8頁め(102頁)上段にそのまま掲載されている。
 さて、改訂版の5頁め(99頁)8行め以下は、まず青梅の金剛寺について次のように記す。異同を太字にして示した。

 なかでもとくに有名なのが青梅市金剛寺だ。乱を起こす前に、青梅を訪れた将門が一本の梅の枝を折り、「もし願いがかなえばどんどん育って大樹なるだろうし、かなわなければ永久に実がならないだろう」と言った。*3
 するとその後、梅は枝いっぱいに花を/【99上】つけ、将門の勢いもますます盛んになった。喜んだ将門がその地に建立したのが金剛寺だという。*4
 しかし、将門が乱に敗れると、実はなるのだが、いつまでも青かった。不思議に思った村人が青梅と呼び、いつしかそれが村の名前となったといわれている


 そして東京都西多摩郡奥多摩町棚沢の将門神社については最後、100頁下段〜101頁上段に「廃社となって再建された将門神社」として、追加取材の成果を盛り込んで詳しく述べられている。
 100頁上段右7行分の写真にはキャプション「杉木立の中の将門神社鳥居」、101頁下段の写真には「将門の妻をまつった御幸姫観音像の前で熱心に営まれる例祭」のキャプションがある。本文中には御幸姫観音像についての記述はないが、棚沢の将門神社の境内にある、将門神社再建時に建立された石像である。102頁下段にはこの将門神社周辺の略地図が追加されている。
 最後に、101頁上段の最後の段落(10〜14行め)を抜いて置こう。

 神社の南にあたる多摩川沿いの平地には将門が屋敷をかまえたと伝えられ、今でも「将門っ原」と呼ばれている。千年以上も前に死んだ将門は、多摩の人々の心に今なお生き続けているのである。


 七ツ石山の言い伝えは、改訂版には見当たらない。(以下続稿)

*1:ルビ「たなさわ」。

*2:ルビ「こんごうこんりゅう」。

*3:ルビ「こんごうじ」。

*4:ルビ「こんりゅう」。