瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

小林信彦『回想の江戸川乱歩』(12)

・対談「もう一人の江戸川乱歩」(5)
 7月16日付(11)に引いた松本清張ゼロの焦点』刊行にまつわる話の後日談を見て置こう。単行本42頁3行め〜43頁5行め、

泰彦 お詫びの手紙か何かきたんだったね。
信彦 清張さんが、「悪いことをした」って。あの人もそういう意味では気を使う人/で、「悪いことをしたから、おたくの会社の二階の応接間の椅子はあんまりひどいか/ら、応接セットを寄付しよう」って。戦前のもので、椅子からバネが出てたからね/(笑)。これが当時のお金で十五万円か二十五万円ぐらいだったかな。
 ところがあの頃、編集部には電話が一本しかなくて困っているから、応接セットの/代わりに、電話を寄付してくださいって言ったんだよ。情けない話だね(笑)。その/もらった電話がぼくの机の上にあって、鳴るたびに、「あっ、清張さんの電話」って/言うんだ。(笑)
泰彦 それを、“黒の電話”とか言ってなかった。(笑)
信彦 うん。
泰彦 電話一本しかなかったの、それまで?
信彦 一本よ。となりの経理にもう一本あった。しかも編集のは、二階の詩学社と切/り換えなんだ。
泰彦 そりゃ不便だよな。
信彦 「おたくは、電話がかからない」ってよく言われてたもの(笑)。だからもう一/本引けて、非常に便利になった。(笑)
泰彦 とても便利になった。


 文春文庫版47頁14行め〜49頁1行め=光文社文庫版48頁4行め〜49頁6行め。異同は単行本42頁5行め「悪いことをしたから、」が文春文庫版48頁1行め=光文社文庫版48頁6行め「悪いことをした。ついては、」になっていること、単行本42頁12行め「言ってなかった。(笑)」が文春文庫版48頁8行め=光文社文庫版48頁13行め「言ってなかった?(笑)。」になっていること、この「?」の後に「(笑)。」と句点を打っているのはおかしいが、単行本では他に2箇所、42頁11行めと43頁4行め、発言の最後で「。(笑)」と、句点の後に「(笑)」としていたのを、文春文庫版48頁7行め=光文社文庫版48頁12行め、文春文庫版48頁15行め=光文社文庫版49頁5行めでは「(笑)。」と句点の前にしている。これについてはこれまで見落としていたが、これまでも同様に処理されていたようである。
 それから単行本42頁15行め〜43頁1行め「詩学社と切/り換えなんだ。」が、文春文庫版48頁11〜12行め=光文社文庫版49頁1〜2行めでは「詩学社と切|り/換え(共同使用)なんだ。」となっている。

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 私の出身高校は昭和30年代後半創立で、当時はそんなに伝統校でもなかったが今や創立50年以上になっている。私もオッサンになるわけである(笑)。で、私は入学直後から図書館――別棟だったので図書室ではなく図書館と呼んでいた――を使い倒していて、クラス別貸出冊数ランキングで、危うく私のクラスが私1人のために学年首位に立ちそうになったことがあったくらいで、当然、司書教諭と懇意になって、私の父と同い年の上品な女性だったが、高1のうちから書庫の本を司書室で閲覧させてもらうなどの便宜を図ってもらい、高1の年度末には「図書館だより」への執筆を求められたりしたものである*1。ところで私は、電車通学ではなかったが中学以来の結膜炎で眼科に通ったりしていたので、よく駅前を回って帰宅したものだったが、駅前に新しく建ったショッピングモールに大きな書店が入っていて、ちょうど高1の夏に岩波文庫が「創刊60年記念<新刊10点>」とて新刊が一挙10冊刊行され、私はそのうちの2冊、中村喜和 編訳『アファナーシエフ ロシア民話集(上)岩波文庫32-642-1)』(1987年7月16日第1刷発行・定価550円・岩波書店・391頁)と武藤禎夫 校注『元禄期 軽口本集 ―近世笑話集(上)―岩波文庫30-251-1)』(1987年7月16日第1刷発行・定価600円・岩波書店・385頁)をその本屋で買って読んだのだった。

ロシア民話集〈上〉 (岩波文庫)

ロシア民話集〈上〉 (岩波文庫)

元禄期 軽口本集―近世笑話集〈上〉 (岩波文庫)

元禄期 軽口本集―近世笑話集〈上〉 (岩波文庫)

 これで味を占めて、当時はまだ文庫本は買っていたので、岩波文庫で面白そうな新刊が出ると、学校帰りにその書店で購入していた。やがて書店員にも私は覚えられて、かつ高校図書館に本を納めていたのがその本屋だったので、あるとき「岩波文庫を買う熱心な学生さんがいる」と店員から話が出て、司書教諭は「すぐに××君のことやと分かったわ」と嬉しそうに私に伝えてくれたが(今だったら個人情報保護云々でこんな話も出来ないのだろうか)、まぁ私の高校のレベルではそんな程度の学生でも珍しかったのである。この書店も、いつだったか、ふと思い立って検索してみたらなくなっていた。はっきりしたことは分からないが、平成14年(2002)以前に倒産したらしい。
 例によって脇道に逸れてしまったが、入学早々郷土資料を頻繁に書庫請求するので勝手に書庫で探して司書室で閲覧しても構わないと云うことになり、私は普通だったら存在にも気付かないような古い学校新聞とか、文芸部誌やら、名簿類などに触れる機会を得たのだが、創立当時の住所録には電話番号が入っていない家が少なくなく、入っていても(呼)としてあったり、商店らしき名前が添えてあったり、どういうふうにしていたのか想像も出来なかったが、とにかく1家に1台、直通の電話がある状態ではなかったらしいことが察せられたのだった。だから、昭和30年代までを扱ったTVドラマで、電話が当然のように引いてあるのを見ると、どうだかと思ってしまう。尤も、じゃあどういう仕組みだったのか、と云うほどの知識もなくイメージも出来ないのだけれども。昭和50年代、私が物心付いた時分には、1家に1台あるのが普通だった。しかし携帯電話の普及で、それもイメージ出来なくなるかも知れない。いや、その携帯電話が、今や普及し始めた当時のものとはまるで違うのである。誰か、仕組みがよく分かる映像をピックアップして、TVドラマがおかしな作り方をしないように、或いは私たちが過去を忘れたり思い出せなかったり誤ったイメージを持たないように、年代ごとの電話利用のサンプル集でも拵えてもらえないだろうか。(以下続稿)

*1:7月21日追記】この辺りのことには2014年3月24日付「楠勝平『おせん』(1)」に、私の図書館利用史の一齣として言及したことがあった。