昨日の続き。
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そこで思い出すのは、大学時代の友人で、彼女に振られてしまった小説みたいな顛末(詳細はもちろん書けないが)を、ちょうど他に人のいない折に「君だけに話すんだけど」と言いつつ語ってくれた野郎がいて、超硬派だった私は男女関係の問題について慰める立場には全くないので非常に興味深く(?)拝聴するばかりだったが、後で彼がいないときに何かのきっかけで、サークルの同輩以上の野郎のほぼ全員が同じ話を「これは君だけに話すんだけど」とて聞かされていたことが判ったのであった。確かにこう念を押されれば聞かされた方は守秘義務を負ったような気持ちにさせられるから、口外はしないであろう。ところが、皆が却って気を遣い過ぎたため何だか彼について微妙な空気が漲り、何かの拍子に誰かが「あいつは今、心に傷を負っているんだから配慮してやれよ」みたいなことを言った、その原因にほぼ全員が思い当たったことで、皆に「君だけに話すんだけど」と念を押しながら話していたことが判明したのであったと思う。この「君だけに話す」の効果は、口止めさせる他にもいろいろある訳だが、理解ある我々は彼のことを嘘吐きとは思わず、これまで以上に気を遣って接するようになったのである*1。――これは淡谷氏の「あなたにだけ」と全く同じはでないと思うが、差当り聞き手に真剣な態度を取らせ、かつ肝腎なところを口止めさせる効果を無意識に狙ったのかも知れない。しかし、口止めも何も、淡谷氏本人が、稲川氏がこんなふうに怪談ライブで語っていた時期に刊行した自伝に、実名で語っているのだから、いよいよ判らなくなるのである。……そもそも淡谷氏はこんなことを言ったのか、稲川氏の中で、誰か別人か、何か別のことと、記憶の混乱があるのではないか、との疑いが拭えないのだ。
――と、書いてみたけれども、淡谷氏に自伝が複数あって、殆どの自伝にそんな記述があるなどと云うことは私もついこの間まで知らなかったので、こんなふうに思ったのには別の理由がある。もちろん「私の幽霊ブルース」の存在だけでも十分「あなたにだけ」に対する疑問の根拠となり得るのではあるが。
・平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』昭和49年7月1日初版発行・¥890・平安書店・282頁・B6判並製本
書影はAmazon詳細ページに表示されている。10頁(頁付なし)下部中央に小さく「〈装 幀 /イラストレーション〉 和田 誠」とある。和田誠(1936.4.10生)は平野威馬雄(1900.5.5〜1986.11.11)の娘平野レミ(1947.3.21生)の夫。
この本は6月1日付「中学時代のノート(1)」にて紹介しようとした中2のときのノートの内容に関連していることに、その後気付いたのだが、詳細を記事にする準備がまだ整っていない。それはともかく、85〜127頁「3 幽界への迷い路」は、87頁2〜4行め、
この章では、末尾にぼくの、今もって、わけのわからない奇怪な「ドッペル・ゲンゲル体験」/を加え、前説には、和田誠さんが、文春で録音した芸能関係の数人の体験記のシノプシスを記し/たものから抄記しながら、神怪の世界に踏み込んで行くことにする。
とあって、まづ87〜112頁「各界有名人が語る怪談奇談」として33人の体験談が紹介されている。詳細は別に紹介したいと思っているが、淡谷氏は8人め、94頁7行め〜95頁5行めに次のように見えている。なお「かや」2箇所とも傍点「ヽ」が打たれているが省略した。
淡谷のり子さんの話
時は終戦直後、夏のこと。所は、山口県宇部市のある旅館のハナシ。
かやをつってねていました。
一時ごろ、かやのまわりを人が歩いているんです。
見たら、知っている男の人。白絣のきものをきていました。
その人が、枕もとに坐って手をのばしたんです。
私、キャッ! といって、気絶しました。
翌朝、女中さんが、サインをしてくれましたかというのです。
何のことかと思ったら、その部屋のちがい棚にサイン帳があるんです。
ふとめくったら、その人の名まえが書いてあったので、ゾッとしました。
聞いたら、亡くなるちょっと前まで、その部屋にいたんですって。
サイン帳は、その人がなくなってから、こしらえたものだったそうです。
その人は絵かきさんで、私がモデルをしていたころ、ぜひ結婚してほしいといわれていたの。
私が裏切ったんです。恨んで、出てきたんでしょうね。
これを見ても、淡谷氏は機会があれば秘することなく語っていたことと思われるので「あなたにだけ」などと勿体ぶって話したとは思えないのだが*2、内容の方も、稲川氏の語っているものとは細部が異なっているのである。そこでまづ、淡谷氏本人が語っている内容について、整理するところから始めよう。(以下続稿)