・松谷みよ子『現代民話考12』(2)
さて、単行本『現代民話考12』は平成8年(1996)5月刊で、近藤雅樹『霊感少女論』刊行は平成9年(1997)7月刊、1年以上前に刊行されています。しかしながら、近藤氏にこの話を報告した崎口君(仮名)は9月27日付「「ヒカルさん」の絵(06)」に見たように平成2年(1990)入学で何事もなければ平成6年(1994)卒業、近藤氏が松山大学で調査を行ったのも平成6年(1994)までですから、松山大学の“閉じ込められた女子学生”の話は『現代民話考12』を承けたものではありません。
ところで松谷みよ子『現代民話考』は、2011年1月22日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(07)」及び、1月29日付「赤い半纏(09)」に見たように、日本民話の会(民話の研究会)の機関誌「民話の手帖」にて募集した、読者からののアンケート葉書を土台にしているのですが、「写真の怪」の募集を呼び掛けた「現代民話考アンケートのお願い」は、頁数に勘定されていない本文中に綴じ込みのA5判の白い厚紙(頁付なし)で、「〈季刊〉民話の手帖」(日本民話の会・定価一〇〇〇円・A5判並製本)の第39号/一九八九年 春(一九八九年四月一五日発行・148頁)88〜89頁の間、第40号/一九八九年 夏(一九八九年七月二五日発行・140頁)96〜97頁の間、第41号/一九八九年 秋(一九八九年十月二十五日発行・136頁)96〜97頁の間、第43号/一九九〇年 春(一九九〇年五月十日発行・140頁)88〜89頁の間、第44号/一九九〇年 夏(一九九〇年八月十日発行・140頁)88〜89頁の間に綴じ込まれていました。雑誌の部数よりも多めに印刷して置いたらしく、いづれも「料金受取人払」の葉書の「差出有効期間」が「平成3年3月/19日まで」となっています。第38号より前の号は確認しませんでしたが、この平成3年(1991)が期限になった葉書は平成元年(1989)1月以降がその上限になりますから、第39号がその最初だろうと思われます*1。これで募集の時期の見当は付けられましたが、「〈季刊〉民話の手帖」は第50号/一九九二年 初春(一九九二年三月二〇日発行・128頁)の98頁、「日本民話の会」と「「民話の手帖」編集委員会」連名の「ご挨拶」(「一九九二年三月」付)に、雑誌としては廃刊になることが告知されており、結局「写真の怪」のアンケート結果は雑誌には発表されませんでした。従ってこの話の初出は恐らく単行本『現代民話考12』で、松山大学の関係者が「〈季刊〉民話の手帖」からこの話を仕入れて「ヒカルさん」の絵に転用(?)した、と云う筋は引けません。その逆もない訳です。
ここで問題になるのは、松谷氏が日大の女子学生からこの話を聞いたのが何時なのか、分からないことです。アンケート葉書には記載スペースの上に「○いつ頃の話/○事件のおこった場所/○自分の体験/○誰から/○話のあらすじ」とあって、こう云った点に留意するよう注意を促しているのですが、当の松谷氏が「回答者」となっている話で「いつ頃」なのかが、全く示されていないのです。
『現代民話考』が話の時期に無頓着であることは2011年1月23日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(08)」にも指摘しました。尤も、読者からの「回答」であれば、アンケート募集期間に書かれたものと見当を付けられます*2が、松谷氏が「回答者」では単行本の校正時に挿し込むことも可能な訳で、刊年の平成8年(1996)まで考慮に入れないといけません。
そこでさらに、スッキリ片付かない、確信に辿り着けない考証を重ねる手間が生じます。――この話の内容は、心霊写真と云う訳でもなく、写真を撮ろうとしたら変事が起こったと云うのでもなく、写真学科の暗室と云うことで入っているだけで、全く「写真の怪」ではありません。学校を舞台として語られている噂なのですから『現代民話考[第二期]II 学校〈笑いと怪談/子供たちの銃後・学童疎開・学徒動員〉』の「怪談」に含めるべきだと思うのです。すなわち、昭和62年(1987)6月刊の単行本『現代民話考[第二期]II 学校〈笑いと怪談/子供たちの銃後・学童疎開・学徒動員〉』に間に合わなかったので、やや強引ながら「写真の怪」に組み入れたのだろう、と思われるのです。
『現代民話考』はこの『現代民話考12 写真の怪・文明開化』で完結して、その後、若干増補したちくま文庫版が刊行されますが、当時はまだ増補新版刊行の機会があるとは予想されなかった訳で、写真は少し絡む程度で「写真の怪」が主題とは云えないような話も、恐らく最後だと云うことで強引に組み入れたように思われるのです。
さて、松谷氏は児童文学作家で、絵本では日本大学芸術学部出身の画家と組んで仕事をしていましたから、以前から同じ練馬区・同じ西武池袋線沿線の日本大学芸術学部とは関係があったようで、『現代民話考[第二期]II 学校』にも日大芸術学部の怪談が採録されています。今、手許に単行本がないので、ちくま文庫版『現代民話考[7] 学校・笑いと怪談・学童疎開』の位置を示して置きますと、19〜325頁「第一章 笑いと怪談」29〜269頁「怪談」64頁8行め〜72頁「三 あかずの間など」64頁9行め〜66頁12行め「大学闘争にまつわる部屋」の本文(64頁10行め〜65頁6行め)の典拠(65頁7行め)が「東京都・日大芸術学部/文――」で、65頁8行め〜「分布」には、65頁9〜10行め、
とあります。この話は2011年8月24日付「『ほんとうにあったおばけの話』(01)」及び1月16日付「赤い半纏(2)」にて注意した、初出の「学校の怪談」(「民話の手帖」第5号36〜78頁、一九八〇年四月十日発行・定価八八〇円・民話の研究会・176頁)では、その1話め(37頁)に掲載されていました。すなわち、松谷氏は昭和55年(1980)以前から、日大芸術学部の学生から話を聞く機会があった訳です。しかしこの『民話のしおり・松谷みよ子さんを囲んで』は図書館や研究機関には所蔵されていないらしく、当の日本大学芸術学部の図書館OPACでもヒットしないので、閲覧のしようがありません。いえ、閲覧出来なくても良いのですが、せめてもう少々背景が分かるように、刊年くらいは示して欲しかったと思うのです。
編者が回答した話であるにもかかわらず、いつ頃の話か分からないのは妙な気分ですが*3、一応、上限は昭和62年(1987)、下限は平成8年(1996)、大まかに云って平成初年と云う見当を仮に付けてみます。「幽霊がその子なのかは判らないけど、」と、幽霊との因果関係が曖昧になっている点、近藤雅樹『霊感少女論』に載る「ヒカルさん」の絵の出てこない崎口君(仮名)の話と、話として出来上がっていない感じが共通するようにも思います。すなわち、双方とも発表者が知ってから発表するまでかなり時間を置いているらしく、それがどのくらいの時間なのかが明確に出来ないのがもどかしいのですが、それはともかく、――両者は別々に、一方は図書室、一方は暗室を舞台として、平成初年頃にそれぞれの大学に根付きつつあった、と云うことになりそうです。(以下続稿)
*1:第38号までに「昭和」を「差出有効期間」とした「料金受取人払」の葉書が綴じ込まれていた可能性は否定出来ないので、いづれ確認して見るつもりです。
*2:回答者がその話を聞いた時期はどうしたって分かりませんが。
*3:どうも、松谷氏の意識する「○いつ頃」と云うのは「○事件がおこった」時期の問題であって、その話が広まって人口に膾炙していたのか「○いつ頃」なのか、と云った点は意識されていなかったように思えるのです。私は発生だけでなく変遷も重視したいので、『現代民話考』を使用する際、この後者の欠落が、アンケート葉書の現物(消印等)や刊行物の年記を確認出来れば解決可能なだけに、もう少し何とかならないものか、と思えてならないのです。