11月16日付(07)の続きで、第二章の1節めを見て置こう。
81頁(頁付なし)は第一章の扉で大半は図版(16.2×7.8cm)、左側の上部に「第二章 外 国 の 幽 霊*1」明朝体の題は大きい。下部、図版寄りに明朝体で小さく「いたずらな嵐の精 (テグナア画)*2」とある。
82頁、章題と同じ大きさの明朝体、3行取り1字下げで「幽霊王国イギリス*3」とあり、さらに1行空けて、3行取り2字下げで一回り大きなゴシック体の項目名。要領はこれまでに同じ*4。
ねむった子が老人の声で*5(82頁2行め〜)
イラスト、83頁左下(頁付なし)
83頁8〜9行めに小さく「(毎日新聞 昭和44年11月/12日)」。
ひかれたはずの老人が……(83頁13行め〜)
イラスト、84頁上
85頁3行めに小さく「(「週刊朝日」 昭和40年2月5日)」。
肖像画のなか/に消える*6(85頁6行め〜)
イラスト、87頁左上
冒頭、85頁7〜13行め、
イギリスの偉大な詩人・劇作家のウィリアム=シェークスピア(〈一五六四〜/一六一六年〉)は、中部イングランド/のストラトフォード・オン・エーボンの生まれ。一九六四年(昭和三十九年)、その生誕四百年祭が/おこなわれたので、世界各国からこの祭りを機会に、観光をかねた見学者がおしかけた。*7
そのとうじ、サンケイ新聞社の欧州総局長だった三雲四郎氏は、つぎのようなふたつの幽霊話を報/道したことがあった。そのひとつは、観光客でにぎわっていたシェークスピア生家のわきにある、/記念館にでるという男の幽霊の話。記念館の補修にあたっている、モバレーという大工さんが、そ/の目撃者。*8
三雲四郎(1921.7.28〜2007.1.11)は三雲孝江(1954.4.12生)の父。85頁1〜11行めに、モバレー氏の目撃談と「心霊術による」説明が記述される。そして86頁12行め〜87頁2行め、
もうひとつは、ロンドンの郊外にある、ヘンリー八世で有名なハンプトン・コート宮殿にでた幽/霊の話である。*9
この宮殿は、十六世紀はじめに十五年もかかって造営された、豪華けんらんたる建物である。そ/の野外劇場で、四百年祭にちなんだシェークスピア劇を上演中のできごとである。*10
“十二夜”上演のおわった夏の夜、演出家のレスリー=フレンチ氏が、友人とふたりで宮殿の長い/ろうかを歩いているとちゅうで、でくわしたというのだ。*11
目撃内容と解釈については省略するが、目撃者のLeslie French(1904.4.23〜1999.1.21)は、Luchino Visconti(1906.11.2〜1976.3.17)監督の“Il Gattopardo”や“Death in Venice”に出演していたので見たことがある。特に前者で演じたCavaliere Chevally役は印象深い。
サンケイ新聞社の欧州総局長が報じたのだから「サンケイ」新聞か、「週刊サンケイ」に出たのだろうが、出典が示されていない。ネットで検索しても俄には見当たらないようなので、いづれ英国の幽霊について記した本に当たって見ることにする。
“おばけ退治会社”*12(87頁11行め〜88頁15行め)
イラスト、88頁右上
88頁2〜5行めに、
こんなことは、大英帝国のはじであるというので、このほ/ど“おばけ退治会社”なるものがロンドンで発足した、とい/う記事が、『週刊文春』に紹介された(昭和40年10月18日) こ/とがあった。*13
とある。
リ ボ ン の 幽 霊*14(89頁1〜12行め)
冒頭、2〜3行め、
昭和三十四年(一九五九年)のサンケイ新聞夕刊によると、ロンドンで目撃されたイギリス幽霊の/スタイルが、UPI通信によって報道されている。*15
これにもやはり記事の日付がない。海外の幽霊に関する情報収集までは、今野氏はしておらず、記憶に頼ったか、それとも一応切り抜いて置いたものの、詳しいメモを取らなかったのであろうか。次の記事もやはり日付がない。データベースのある「朝日新聞」や「読売新聞」なら端末から検索すれば良いし、縮刷版があればその巻頭の「記事索引」で見当を付けられるが、それ以外の新聞でマイクロフィルムで見て行かないといけないので、当該記事を見付け出すのはなかなか困難である。
池のなかから女の細/い手(90頁1行め〜92頁12行め)
イラスト、91頁上
冒頭、90頁2〜5行め、
「イギリスの怪談には、公園を舞台にしたものも多くて、ロンドンでさえ、ふたつの公園について、/ちゃんと公式記録にのこっている話がある――」*16
と、東京新聞社の杉浦通信員は、昭和三十七年(一九六二年)、「世界の話題」でつぎのような幽霊話/を報道した。*17
この記事の紹介は92頁2行めまで、1行分空けて3行めから別の話である。
冒頭、92頁3〜5行め、
つぎは、すさまじい幽霊たちの戦闘の話を紹介しよう。*18
いまから三十年前に、共和派と王党派が激戦をまじえて、死者四千人をだしたイギリスのレミン/グトン市郊外には、その戦闘のあった十月二十三日になると、毎年きまって、‥‥*19
とあるのだが、共和派と王党派の戦闘が「三十年前」のはずがないので、これは清教徒革命(1642〜1649)の緒戦Battle of Edge Hill(1642年10月23日)のことだから「三百年前」である。末尾、92頁11〜12行めに小さく「(朝日/新聞 昭和35年10月11日)」とある。(以下続稿)
*1:ルビ「ゆうれい」。
*2:ルビ「あらし」。
*3:ルビ「ゆうれい」。
*4:【2017年1月8日追記】11月10日付(03)で見た「も く じ」の節題の改行位置を、11月13日付(04)で見た第一章の1節め、11月14日付(05)で見た第一章の2節めのように示すつもりだったのを忘れていたので、補って置いた。2箇所ある。
*5:ルビ「ろうじん」。
*6:ルビ「しようぞうが」。
*7:ルビ「いだい・しじん/せいたん/かんこう」。
*8:ルビ「おうしゆうそうきよくちよう・ほう/どう・せいか/きねんかん・ほしゆう・だいく/もくげきしや」。
*9:ルビ「こうがい・きゅうでん/」。
*10:ルビ「せいき・ぞうえい・ごうか/やがい」。
*11:ルビ「や・じようえん・えんしゆつか/」。
*12:ルビ「たいじ」。
*13:ルビ「/たいじ/しようかい/」。
*14:ルビ「ゆうれい」。
*15:ルビ「もくげき・ほうどう」。
*16:ルビ「かいだん/こうしき」。
*17:ルビ「すぎうら・わだい/ほうどう」。
*18:ルビ「せんとう・しようかい」。
*19:ルビ「きようわは・おうとうは・げきせん/」。