次に巻頭から1節ずつ取り上げて、改稿して再録している『江東昔ばなし』との異同を細かく挙げて行こうかと思ったのだが、それは大変な作業量になってしまい、とてもでないがこの年末までに済ませられそうにないので、差当り登場する人物について述べた箇所を拾って検討することとした。『江東昔ばなし』は上製本の位置を示す。
・田辺氏の母の生歿年
田辺氏の母について、『うろか船』168頁2〜3行め「‥‥。おふくろ/は、十二のときに父親に死なれ、母ひとり子ひとりでそだってきた。‥‥」とある。『女木川界隈』の「呪いの歯」の節を見るに、55頁10〜11行めに、
ぼくの祖父は、位牌によると、明治十九年に死んでいるが、母が十二のときだったというから、/若死にだったにちがいない。‥‥
とある。ところが『江東昔ばなし』の「呪いの歯」を見るに、39頁4〜5行め「‥‥。母が十歳ぐらいの時だというから、/明治二十年ごろだったが、‥‥」とある。『江東昔ばなし』では「私の生家」にも、冒頭(24頁14行め)に「 母は明治十年に生まれたそうだが、‥‥」とある。『女木川界隈』(及び『うろか船』)に拠れば、明治19年(1886)に恐らく数えで十二歳とすると、明治8年(1875)生ということになる*1が『江東昔ばなし』では明治10年(1877)生と明示されている。
歿年は私の見た3冊には明記されていない。しかし手懸りはある。すなわち、『江東昔ばなし』の「チーハばくち」に、153頁12行め「 私の父は昭和九年に死んだが、‥‥」とあり、同書「外道松」にも157頁9行め「‥‥、昭和九年に父が死んだときには、‥‥」とある。なお、同じ話題を扱った『女木川界隈』の「外道松」では田辺氏の父の歿年に触れず、「チーハー事件」では田辺氏の父の死に触れていなかった。
『江東昔ばなし』の「あとがきにかえて」の副題のある「改葬の嘆き」については、11月29日付「田辺貞之助『江東昔ばなし』(5)」に「日付はないものの本書刊行に際して書き下ろしたものと思われる」と書いてしまったのだが、これは誤りで国会図書館サーチで検索するに「経済往来」35巻7号(昭和58年7月)に掲載されていることが分かった。まさに「あとがきにかえて」載せたのである。それはともかく、189頁15行め、祖先代々の墓から同じ菩提寺の新しい墓に改葬して「それから一週間ばかりで母の五十回忌になったが、父の五十回忌は二年あとなので、‥‥」とあって、昭和9年(1934)歿の田辺氏の父の五十回忌は昭和58年(1983)である。すなわち田辺氏の母はその2年前に歿していることになり、昭和7年(1932)歿と見当が付けられるのである。
この順序は『女木川界隈』でも確認出来る。「お稲荷さま(二)」の節の冒頭、73頁3〜7行め、
その後、十年の月日があわただしくながれた。妹の死後、四十九日にもならないうちに、ぼくも/茅ヶ崎へ転地する身となり、父母と涙の別れをして出かけた。だが、病気がかるく、三ヵ月の入院/でもどってきたときの母のよろこびようは、今でも忘れない。それから結婚、母の死、長女の誕/生、父の死と、めまぐるしい年々だった。そのあいだに、日本は次第に軍国調をまし、上海事変か/ら日支事変へつづき、大東亜戦争へ突入の態勢をととのえつつあった。
とあるのだが、次回述べるつもりだが妹の死が昭和5年(1930)、長女の誕生が昭和8年(1933)と『江東昔ばなし』に明記されているので、田辺氏の母は昭和7年(1932)歿と見て矛盾しないのである。(以下続稿)
*1:満年齢だとするとさらに1〜2年遡る。