瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田辺貞之助『江東昔ばなし』(7)

・田辺氏の家族の生歿年(4)
 昨日の続き*1
・妻
 2016年12月26日付「田辺貞之助『女木川界隈』(4)」の最後に引いた『女木川界隈』の「お稲荷さま(二)」の節に拠れば、昭和5年(1930)秋の妹の死と、昭和7年(1932)の母の死の間に結婚している。昭和6年(1931)頃と云う見当になる。
 年齢であるが、本書の「江東の夫婦」の節の「五徳のない火鉢」の冒頭、129頁4〜5行め(並製本146頁1〜2行め)、

 二番目の娘が生まれた翌年、つまり昭和十三年の八月の初めのとても暑い日だった。家内は|蒼い/顔をして便所から出て来て、とてもひどい出血がしたと云った。‥‥


 そこで、8行め(並製本6行め)「親類のばあさんのところへ相談にい」くと、9〜10行め(並製本7〜8行め)「亀戸の三業地に産婦人科のえらい先生|がい/る」のを呼ぶことになるのだが、13行め(並製本11〜12行め)「‥‥、先生が家内の年を聞いたので、二十七、八だと答えた。する|と、/‥‥」と、以下すったもんだの展開になるのだが、昭和13年(1938)8月に「二十七、八」だとすると、生年は明治44年(1911)辺りの見当になろう。
・娘
 2016年12月7日付「田辺貞之助『うろか船』(1)」に引いた、『うろか船』口絵裏の「著者紹介」に、「家に三女あり」とあって、娘が3人いたことが分かる。『うろか船』や『女木川界隈』には娘の受験のことなどが話題となっているが、本書は昭和19年(1944)3月に疎開するまでのことが主になっているので、娘のことは殆ど語られない。しかし、娘3人の生年が明示されているのが、私のような考証を道楽とする人間には有難い。
 2016年11月30日付「人力車の後押しをする幽霊(6)」及び2016年12月27日付「田辺貞之助『女木川界隈』(5)」に引いた「長手という道」の最後の段落、9頁16行め〜10頁2行め(並製本12頁13〜17行め)に、

 この長手はその後木場が拡張するにつれ、何本も木堀が横断するようになり、小さな橋がい|くつ/もかかった。昭和八年の春、家内が渋谷の実家でお産をすることになったので、身の回り|の物一切、/産湯の盥まで積んでタクシーで送っていった。運転手に注意するのを忘れたので、|タクシーは長手【9】へはいってしまい、橋また橋を越えるたびにガクンガクンと揺れ、途中で産気|づかれたら事だと大/いに気を揉んだのであった。

とあって、長女は昭和8年(1933)春に生まれている。
 次女は先に引いた「五徳のない火鉢」の冒頭に拠れば昭和12年(1937)生。
 三女は同じく「五徳のない火鉢」の続き、子宮の全摘出を主張する亀戸の医者に、翌日、同意の旨を伝えに行こうとしていたところに、130頁18行め(並製本147頁16行め)「例の親類のばあさんがはいって来」て、131頁1〜3行め(並製本147頁17行め〜148頁2行め)「女にそういうところがないのは、火鉢に五徳がないみたいで、|様に/ならないじゃないか。取るんならいつでも取れるんだから、もう一度ほかのお医者に見て|おもらい/よ」と言うので、今だったらセカンドオピニオンと云うことになるが、6行め(並製本5行め)「日本橋の浜町河岸のさる病院へ行」き、7行め(並製本6行め)「そこの若い院長」に、9行め(並製本8〜9行め)「簡単な掻|爬」で済み、10行め(並製本9行め)「二週間ほど入院なさればよろしいでしょう」と診断される。そして、132頁1〜2行め(並製本149頁1〜2行め)、

 家内はすぐに入院したが、経過は順調で、二週間ばかりで元気になって帰って来た。そして、|そ/の翌年、また女の子を産んだ。

と云うことで決着するのだが、この後で妊娠して昭和14年(1939)に出産したのであれば、三女の誕生は昭和14年度と判断される。(以下続稿)

*1:1月16日追記】投稿当初、引用に並製本の位置を示していなかったのを追加した。改行位置は「|」で示した。