瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田辺貞之助『女木川界隈』(5)

・田辺氏の家族の生歿年(2)*1
 昨日見たように『女木川界隈』では家族の生歿年を曖昧にしていたのが『江東昔ばなし』ははっきりさせている。これは『江東昔ばなし』の前年に「改葬の嘆き」を執筆して、家族の年忌について確認する機会を得たためであろうか。『江東昔ばなし』を纏めるきっかけとなったのかも知れない。
・父
 昨日見たように昭和9年(1934)歿であるが、生年は『うろか船』の「幼き日のことども」の1項め「おひねり」の冒頭、144頁3〜4行め、

 ぼくはおやじが四十三のときの子である。戸籍では次男だが、長男は生れると間もなく死んで/しまったそうで、だから実質的に長男である。しかも、上は女ばかりだったので、‥‥

とある。田辺氏は明治38年(1905)1月30日生なので、数えで四十三歳とすると文久三年(1863)生となる*2
 なお『江東昔ばなし』の「魔の家」の項に、53頁2行め「私の父は(養子なので古いことは知らなかったが)」とあるように、田辺氏の母が家付き娘であった。
・姉
 右の引用には「上は女ばかり」とあるが、姉は1人しか登場しない*311月30日付「人力車の後押しをする幽霊(6)」に触れた『江東昔ばなし』の「長手という道」の1つめの話題に、7頁15行め〜8頁2行め、

 これは後で父から聞いたことだが、私がはじめてこの道を通ったのは満一歳にならない時分であ/った。つまり明治三十八年の暮れごろ。
 その時分に乳母車がはやりはじめ、当時九歳ぐらいだった姉が私を乳母車に乗せてよく守りをし/たそうだ。その姉があるとき‥‥

とあって、満年齢だとすれば明治29年(1896)生である*4
 結婚して家を出たのは大正6年(1917)である。『女木川界隈』の「つなみ(二)」の節は、前の「つなみ(一)」と、後に続く「水屋」の節と一纏まりで大正6年(1917)9月30日の台風に伴う東京湾奥の低地の高潮災害の体験を述べるが、47頁4〜5行め、

 あの時分のことで、いまでも目にうつっているのは、着物だ。ちょうど姉が嫁入り前で、あれ/これと準備した赤い着物が全部ぬれてしまった。‥‥

とある。『江東昔ばなし』の「大正六年の大津波」の節は『女木川界隈』の3つの節を一つに纏めたものである。
   『女木川界隈』 → 『江東昔ばなし
 「つなみ(一)」の「一」→「台風来る」
 「つなみ(一)」の「二」→「噴水のような火柱」
 「つなみ(一)」の「三」→「巡査の茶飯」
 「つなみ(二)」の「一」→「座敷に上がった木場の材木」
 「つなみ(二)」の「二」→「水につかった花嫁衣装」
 「つなみ(二)」の「三」→「恩賜の一円五十銭」
 「水屋」       →「水売りの声」
 『江東昔ばなし』は細かく手を加えている。「水につかった花嫁衣装」から該当箇所を見て置こう。78頁2〜3行め、

 あのときのことで、今でも目にうつっているのは、姉の着物だ。姉は縁談がきまって、十月には/嫁に行くことになっていて、母が、あれこれ着物を揃えていやのだが、それが全部濡れてしまった。/‥‥


 しかし、細かくなっているばかりではない。登場人物の名前が変えられたり、省かれたりもしている。「恩賜の一円五十銭」に、79頁8〜12行め、

 あのとき何よりも助かったのは、京橋のほうで手びろく金物問屋をやっていた母のいとこが、米、/味噌、醤油から、夜具蒲団にいたるまで何十種類という必需品を、二台の荷車に山と積んで、まる/で初荷のように掛け声かけて送り込んできたことだ。だが、磯部というその小父さんは翌年心臓麻/痺でぽっくり死に、店は番頭の食い物にされたとかで、急速に衰えていった。父はその店にかなり/出資していたらしいが、「あのときに助けられたのだから」と目をつぶったようだ。

とあるのだが、『女木川界隈』の「つなみ(二)」の「三」には、48頁12行め〜49頁6行め、

 あのとき、何よりも助かったのは、京橋の方にいた母の従兄が、米、味噌、醤油から、夜具蒲団/にいたるまで、何十種類という必需品を、荷車に山もりに積んで、まるで初荷のように掛声もいさ/ましく、送りこんでくれたことだった。その親戚は手びろく金物問屋をやっていたが、ぼくの父か/らも相当の資金が出ていたらしい。清ちゃんという息子と、辰巳という娘とあり、たまにあそびに/くるのが楽しみだった。だが、当主が死んだあと、細君が番頭の食い物にされたとかで、家運が急/にかたむき、音信不通になってしまった。辰巳という娘は色の白い、瓜核顔のきれいな子で、母は/よく、「お前は大きくなったら、辰巳ちゃんをお嫁さんにするんだよ」と、ぼくにいった。ぼくも/そのつもりでいたが、その後一度も会わない。芸者にでも売られたのじゃあるまいか。父のつぎこ/んだ資金もそのままになってしまったが、「あのとき助けられたのだから」と、催促もしなかった/らしい。

とあった。恋とは云えないようなごく淡い初恋の相手であったのだ*5。或いは、『江東昔ばなし』の「巡査の茶飯」には、被災の2日め(10月1日)のことを述べて、74頁10〜11行め、

 昼すぎになって、巡査が船で見まわりに来た。顔見知りの巡査だった。巡査は二階の大勢の人数/におどろき、炊出しのめしをもって来てやるから、お鉢があったら出せと云った。‥‥

とあるところも、『女木川界隈』の「つなみ(一)」の「三」では、42頁4〜6行め、

 昼すぎになって、巡査が船で見まわりにきた。その巡査は母の従妹*6の娘と恋仲で、いずれ結婚す/る予定だったので、勤務につくと最先にやってきたらしい。炊出しのめしをもって来てやるから、/お鉢があったら出せ、といった。‥‥

と、ただの「顔見知り」ではなかったことになっていた。(以下続稿)

*1:12月31日追記】投稿時(1)としていたが12月31日付「田辺貞之助『江東昔ばなし』(6)」投稿に際し、12月26日付(4)(1)に当たる訳なので、この記事は(2)に改めた。

*2:満年齢とすればさらに1〜2年遡る。

*3:12月31日追記】これについては12月31日付「田辺貞之助『江東昔ばなし』(6)」に述べたように少々疑いが生じたのだが、やはり(成人した)姉は1人だったろうと思われる。

*4:数えなら明治30年(1897)生。

*5:私は自分が転校生なので、ある印象を残していなくなってしまった人の記憶を惜しむ。――私がそのような印象を残したと云いたいのではない、私にとって、全てがごっそりといなくなってしまった記憶なのだ。

*6:ルビ「いとこ」。