瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

手塚治虫『ブラック・ジャック』(6)

大林宣彦監督『瞳の中の訪問者』(6)
 「殺される瞬間に見た光景」が「焼き付いた」ならば、それに類する経験をした人物が苦しめられるPTSDと同じような、――すなわち、殺人犯の一部には殺害の光景が、そして殺人未遂の被害者には襲われたときの光景が不意に浮かんでうなされると云うフラッシュバックに似たようなものが、千晶にも見えるはずなので、原作で千晶がしばしば目にして、ついには惚れてしまう美青年の立ち姿では、到底そんな物騒な瞬間のものとは思われない。
 映画の脚本はこの点に疑問を抱いたのであろう。それではどちらを採るか、と云うことになるが、本当に「殺される瞬間に見た光景」が見えてしまっては千晶が犯人を好きになるはずもないので(もちろん、それでもサスペンス映画にはなるだろうが)美青年が見えると云う方を採って、楯与理子は犯人のことが好きだった、だからそれをしばしば見せ付けられることになった千晶も好きになってしまう、そんな設定にしたのだと思うのである。
 私はこれを、矛盾の解消として高く評価したいのである。
 映画ではブラック・ジャックが眼科の手術を担当することになった経緯が、10月2日付(4)に述べたように一応は想像されるのだけれども、やはり不自然な設定を構えている印象が拭えないのに対し、映画では眼科の専門医(石上三登志)が千晶の眼球のレントゲン写真を見て――このふざけたレントゲン写真と好い加減な担当医の発言が、9月26日付「水島新司『ドカベン』(14)」に取り上げた映画『ドカベン』での、岩鬼に「複雑怪奇骨折」させられた丹下のレントゲン写真と好い加減な校医と通じるように思うのだが――手に負えないと言い、ブラック・ジャックなら可能かも知れない、と言うので今岡コーチはブラック・ジャックを訪ねるのである。この方が設定としては(ありがちだけれども)自然である。尤も、石上氏の演技がやりすぎで不自然な印象を与えてしまっているのだけれども。(以下続稿)