かつて、はてなポイントが抽選等でほぼ毎月加算されていた時分に溜まったポイントを使って、はてなダイアリープラスに加入して過去のノートの画像、差当り中学時代に怪異談について纏めた1冊を上げるつもりであったが、忙しくしていてとてもでないが画像を上げて、ノート本文の翻刻も添え、さらに若干の注釈も加える、と云う作業をする余裕がなく*1、そのままにしていたら、昨晩ふと思い出して今日、帰宅後確認したら、失効していた。約6000ポイントは勝手に溜まったのだから惜しくはないが、有効期限を延長させるために昨年購入した1000ポイントが若干惜しい。しかし2月10日に失効していたのだから仕方がない。失効予告メールが来た段階ですぐに何とかするべきだったのだが、しかし、実際のところそれほどの執着もないのである。図書館の本も大抵何もしないまま返却しているのだし。――と云う訳ではてなダイアリープラス移行はまた当分の間、先延ばしになった。
しかし、最近、生きているうちに何とかしなければ、と思うのである。一方で、別にこのままどうもせずに死んでしまっても、何の惜しいことがあろう、とも思うのである。
(中略)
ところで今、年賀状は20通も要らないくらいで、高校までの友人とは音信不通で、もう会うこともあるまい。大学時代の友人もごく少数、院生だった時分の知り合いは若干、それから女子高時代の同僚と親族である。
院生時代の知人は、研究界と予算制度にほとほと嫌気が差して、私が足を洗ったことを分かってくれない。某女子大名誉教授は博士論文を出したのに研究職に就かずに女子高の講師なぞをやっている私を励ます会を開こうと提案して、私は仰天して人を通じて鄭重にお断りし、以後連絡を差し上げないことにした。
別の女子大の元教授の年賀状には毎年「必ず××さんの研究は認められる日が来ます」とあるのだが、所謂研究論文は久しく書いていないし、認める立場にある方々に目がない(!)し、第一私が今更堅苦しく縛られる研究職に就こうなどと思ってないから、どうしようもない。前記名誉教授氏は、私が専任の公募に落ちて、大学非常勤では食えないので、泣く泣く収入と雇用の面では安定している高校講師*2をやっていると思っていたらしいのだが、私は出身大学(博士号取得した大学院とは別)の指導教授の後任の公募しか応募していない。文学研究などは道楽としてやれば良いので、大学文学部の殆どは滅びてしまっても構わないと思っている。もちろん文学部を絶滅させよと云うのではなくて、私の出身大学くらいまでは残して置いて、それ以下の大学はもう文学部なんて止めてしまっても良さそうに思っているのである。しかし、私の華やかでない研究歴・職歴からして、出身大学と云う縁故でもないと引っ掛かりそうにないから、一度だけ応募して、それ以上の大学には端から応募していない。もちろんそれ以下の大学にはもう文学なんか要らないだろうと思うから端から応募しない。だから公募情報も見たことがない。――状況は変わっているのかも知れないが、今更どうかしようと云う気も起こらないのである。
まだ過去に学会に所属していたときから継続で、出版社から学術書のパンフレットや目録が送られて来るのだが、その中に博士論文の指導教授の新刊のパンフレットがあって、目次を見るにどうも私のやっていたことと重なるところがあるような(テーマをまるまる盗まれたとか云うような話ではもちろん、ない)ので、出身大学の図書館で借りて見た。数箇所、私の名を挙げたところがあったが、その中に、私が博士論文の一部に書いた内容と、同じ内容の調査報告を数年後に行って、この本では(私の博士論文に目を通した人から注意があったのか、本人が別の必要から私の博士論文を再見して気付いたのか、どちらか分からないが)私の名を挙げて(自分の報告の収録を差し控えて)*3いたのだけれども、読みながら流石の私も、――自分の指導学生の博士論文の内容を忘れとったんかい、と突っ込んでいた。しかし今更抗議しようとか云う気は起こらないのである。
恐らく、指導教授は博士論文で読んだ当時は、臍曲がりの私が、また通説に従わずに、また突拍子もない主張を始めよったくらいに思っていたのだろう、私としては従来の通説ではなく飽くまでも資料に基づいて考え得る可能性をそのまま述べたつもりなのだが、特に指導教授からも、副査の方々からも評価するようなコメントは(その反対で否定するようなコメントも)なかった*4。だから指導教授も忘れていたのだろう。その数年後、私が戦前の研究者の記述に基づいて(つまり現物を見ずに)検討したある資料について、指導教授はその原本を見る機会を得て、そこから考証を始めたところ、私と同じことを私に気付かずにやって、私のことを忘れたまま発表(!)したのである。
私はこのことを知って、――やっと時代が、いや、時代はまだだ。……ようやく指導教授が私に追い付いた(笑)と思ったのである*5。当時、一世を風靡したはずなのに、戦前の研究者の資料の誤読が引き継がれたせいで、研究史上、不当に低く評価され続けてきたある人物について、ようやく正当な評価を下すべき時機が来た、と心が浮き立っている。しかしながら、今更学会に関わりたくはない。面倒である。しかし、私以上にこの作業が出来る人はいない、と云うか、私はもう10年以上前の博士論文で、それを済ませている。
さて、どうしたものか、と思っているのである。いや、私がやったのでは、やはりそれほどの影響力を持たないだろう。それでもどこかに、もう少し人目に付くところに、この人物のことを飾って置きたく思うのである。(以下続稿)
*1:2016年6月1日付(1)から始めるつもりだった。当時は、忙しいと云うよりも、――かなり具体的に住所や学校、それから担任教師について述べることになるので躊躇していたのだけれども、その後さらに自分語りが加速しているから、もうそろそろこのノートの公開に着手しよう、と思ったのである。
*2:その後、例の雇止め制度(?)の導入促進のためにそうも云っていられなくなったが。
*3:【2019年8月26日追記】灰色太字箇所を追加。
*4:副査の1人から、資料を丁寧に読み直して従来の誤読を指摘したところは評価されたが、その先の結論についてのコメントはなかったと思う。
*5:(結果的に)同じ作業をしてしまった、と云うよりも私の博士論文の内容を完全に忘れていたのではなく、心のどこかに「刷り込み」になっていて、それで、私の調査をなぞるように自分も調査してしまったのかも知れない。