瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(30)

・白銀冴太郎「深夜の客」(6)
 一昨日からの続きで、①白銀冴太郎「深夜の客」と②杉村顕道「蓮華温泉の怪話」の比較を最後まで済ませるつもりだったのだけれども、前回、事実尊重と云う点を問題にしたので、今回はこの点をもう少々詰めて置こうと思う。
 『山怪実話大全』の東雅夫「編者解説」、8月8日付(27)に抜いた箇所の続き、段落末まで引いて置こう。二三四頁9〜13行め、

‥‥。ここで問題になるのは、果たして/「深夜の客」が「木曾の旅人」の書き換えなのか、それとも両者に共通する何らかの原話が/あるのか、という謎だ。発表のタイミングから見て、「深夜の客」の作者が綺堂作品を目に/した可能性は高いように思われるが、綺堂もまた巷間に伝わる怪談奇聞をしばしば創作の素/材としており、後者である可能性もいちがいに否定はできない。


 前者だとすれば、①「深夜の客」は、8月6日付(25)に見たように「一頁古今事實怪談」懸賞募集の入選作なのだが、東氏はこの「事実怪談」と云う点に、疑念を差し挿んでいることになる。すなわち、岡本綺堂「木曾の旅人」を「書き換え」て①「深夜の客」を書いたのだとすれば、少々言い方は悪いが(だから東氏はそんなことは書かないのだけれども)懸賞金目当てで盗作めいたことをやってしまった、と云うことになる。
 私もその可能性は否定出来ないと思う。けれども、別の可能性も考えられると思う。
 まづ基本として、杉村顕道(1904〜1999.12.4)のこの頃の経歴を押さえて置く必要がある。『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』435〜455頁、次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」を参照するに、杉村氏は現在の東京都新宿区戸山の出身で、昭和2年(1927)に國學院大學高等師範部に入学し、昭和5年(1930)に卒業して長野商業学校に国語漢文教師として赴任している。「サンデー毎日」の「一頁古今事實怪談」懸賞に「深夜の客」が入選した昭和3年(1928)7月には数えで二十五歳の國學院の学生、東京生まれで東京の学校に進学しており、新潟県や長野県で暮らしたりと云った縁はなかったらしい。
 さて、以下に「別の可能性」を追求して見ようと思うのだが、少々想像を逞しくし過ぎたので、ちょっと書き過ぎたと思う箇所は灰色にして区別することにした。
 ――8月2日付「北村薫『いとま申して』(1)」に取り上げた『いとま申して』シリーズ全3冊、まさに①「深夜の客」②「蓮華温泉の怪話」そして岡本綺堂「木曾の旅人」が発表された頃に書かれた学生の日記をもとに書かれた史伝小説であるが、日記の筆者、宮本演彦(1909.3.29〜1992.8.17)の家では、童話を家族に読んで聞かせるような場面が何度か出て来る*1
 杉村氏も級友の誰かから、同じように「木曾の旅人」を聞かされる機会があったかも知れない。いや、朗読ではなく、面白い怪談として級友から聞かされた、とした方が良さそうだ。その印象が残っていたところに「サンデー毎日」の「一頁古今事實怪談」懸賞募集を目にする。――あの話が使えそうだ、と思う。級友の話は(信州辺りの)深山の杣小屋が舞台であったが「事実怪談」と云うからには、もっと具体的な場所を決めないといけない。どこにするか。そのとき、ふと越後高田出身の級友、青木君の存在に気が付く。東京で暮らしている自分が、東京の住所から応募しても説得力がない。越後辺りの深山の話にして、青木君の住所から応募すれば、越後の「事実怪談」らしくなる。青木君に相談すると、面白そうだと乗ってくれた。そこで舞台となりそうな山中の一軒家を探そうと新潟県の地図を拡げて見たが、分県地図ではそこまでは分からない。と、白馬岳の中腹、麓の集落からも相当離れた位置に、蓮華温泉と云うのがあるのを見付ける。青木君も行ったことがないと言うが、図書館で地誌や旅行案内の類を引っ張り出して少し調べて見るに、麓の集落から隔絶された山中の一軒宿で、冬季は営業していないらしい。これは舞台に丁度良さそうだ、と思って書いて見ると、上手いこと規定の枚数に収まった。時期も具体的にした方が「事実怪談」らしいから、差当り15年くらい前としてみた。
 応募したことは他に誰にも話さなかったが、当選した。筆名を使ったから杉村氏の作品だとは誰も気付かない。しかし住所から青木君に「君が書いたのか?」と訊ねる者が出て来て、青木君は杉村氏の作品だと明かしてしまう*2。するとその級友は、薄田泣菫に選ばれた出来を褒めながら、――しかし、大正の御代に幾ら山の中でも和服の巡査がいるだろうか、との疑問を口にする。元の話で怪紳士が洋服で、大手柄の巡査が和服と云う対照が印象的だったので、地方では或いはそうなのかと思ってそのまま使ったのだが、流石に自分たちの世代の物心付いて以来では、地方でもそうではないらしい。そこで卒業後、縁あって長野県に就職し、この話をもう1回、②『信州百物語』に載せることを思い付いたときに、時期を自分が生まれる何年か前、切りよく明治30年に変えてみた。その方が洋服の紳士も際立ちそうだ(しかし、明治30年でも巡査の服装は立襟の洋服にサーベルだったはずである)。*3
 このような、文字や商品としての語りが口承化されて再び記録されるケースは、昔話研究でもしばしば指摘されている。グリム童話にある話が(例は多くはないが)日本で口承化して語られていたり、落語が昔話として記録されていたり*4、最近では、常光徹講談社KK文庫)や日本民話の会(ポプラ社)の『学校の怪談』シリーズ辺りから、目立ちたがり屋の話し上手が周囲の児童生徒の間に広め、それを又聞きの又聞きくらいで聞いた児童生徒の1人が自分の学校にオリジナルの話と思い込んで、愛読者カードの「みんなの学校のこわい話」みたいな欄に書いて、再び講談社ポプラ社に寄せた、なんてこともあるだろう。
 従って、杉村氏の話が「木曾の旅人」に由来するとして、それは必ずしも直接(言い方は悪いが)盗んだとは限らないのである。(以下続稿)

*1:先日読んだばかりの例を挙げると、2冊め『慶應本科と折口信夫』85〜86頁、昭和4年(1929)9月11日、「萬朝報」の童話欄に載った弟・清彦の童話「ある夜の話」(但しアンデルセン『絵のない絵本』をなぞったもの)を、父・眞太郎が、台詞を登場人物に合わせた声で読んでいる場面がある。

*2:私は「青木」を國學院の級友の実家と想像してみた。東氏の『山怪実話大全』第三刷に於ける追記では、この点、どこまで追究してあるであろうか。

*3:書いてみて、完全に北村薫『いとま申して』シリーズの影響を受けていると思った次第。

*4:以前は落語が昔話を取り入れた、と考えられており、確かにそのような例もあるであろうが、落語からの昔話化と考えた方が良さそうだと(恐らく昭和50年頃から)指摘されるようになった。