瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(51)

・末広昌雄「山の伝説」(5)
 昨日の続きで、8月12日付(31)に引いた白銀冴太郎「深夜の客」のうち、【K】子供の怯えたものとした箇所に対応する、「山の宿の怪異」16頁上段8行め〜中段4行めを抜いて置きましょう。要領は9月8日付(49)に示した通りで、書き換え・書き足しと判断される箇所を太字にして示しました。

 宿った主人は子供に向かって言った。/「あの男の人は恐ろしい人殺しをしただが、/俺不思議でならないんだ。人殺しと聞けば/俺も恐ろしくなるがお前は何もしらないの/にあいつが怖ろしいと言った。どうして恐/ろしい男だと分かったんだい」と。
 子供はと言うと、まだ唇を紫にして震えて/いた。「父ちゃんは見なかったかい」「何を」/「とても怖いものを」「何も見やあしなかった/」「父ちゃんあの人が坐っていただろう、あ/の時にさ」「何かあったかい」
 「背中にだよ。あの人の背中に、血みどろに/なっ髪を振り乱した若い女の人が、恐ろしい顔をしておぶさっていたんだよ」
 「えっ」と、主人は総身に水でもぶっかけられ/たようにおびえてしまった。
 「そしてね、あの人が出て行った時にさ。その時に、オンブしていた若い女が背中から離/れてあの人の後からふわふわと歩いてつい/て行ったよ。そして、家の戸口まで行った時【上段】、父ちゃん、俺の顔をみて、ニタニタと笑/ったんだよ」
 主人は真っ青になって反対に子供に抱きつ/いたのであった


 佳境に達して、いよいよ「深夜の客」との相似は隠しようがなくなっています。
 さて、8月29日付(46)に引いた堤邦彦「「幽霊」の古層」では、これに対応する「蓮華温泉の怪話」の、東雅夫編『山怪怪談実話』の位置で示せば二〇四頁11行めから二〇五頁3行めまでを引用して「迫真の描写力をもって‥‥再現しており、『あしなか』の素朴な聞き書きに比べると、はるかに小説虚構の色彩のみなぎる話柄に‥‥」と評価するのですが、9月6日付(47)に述べたように、私にはこれがどうも、引っ掛かるのです。
 確かに「蓮華温泉の怪話」の方が「小説虚構の色彩」が濃くなっていると、云えなくもないでしょう。しかしながら「深夜の客」そして「山の宿の怪異」も、余り大差はないので、とても「素朴な聞き書き」とは云えないように思うのです。これなども、従来漠然と、初版が『怪奇傳説 信州百物語』そして後の版は『信州百物語 信濃怪奇傳説集』と題している本に収録される「伝説」なのだから、小説である岡本綺堂「木曾の旅人」に先行するのだろう、と思われていたのと同じで、民俗雑誌「あしなか」に「伝説」と題して載っているのだから「素朴な聞き書き」だろう、との先入観が働いてしまったのではないか、と思われてなりません。
 もちろん、私は「山の宿の怪異」が週刊誌の「事実怪談」懸賞に応募した作品「深夜の客」を踏まえていると知っているからここまで云えるのだ、と思う人も、いるかも知れません。しかしながら、確かにここまではっきり自信を持って云えないとしても、昭和9年(1934)の杉村顕道「蓮華温泉の怪話」と平成4年(1992)の末広昌雄「山の伝説」とで、前者の明治30年(1897)そして後者の明治25年(1892)26年(1893)の齟齬に注目し検討を加えたときに、やはり時代の新しい末広氏の文章が疑わしく、行文の上からも「素朴な聞き書き」ではないだろう、と云うことは、末広氏が他に書いたものと比較した上で、随分手間と時間を掛けることになりますが、指摘し得たと思うのです。――尤も、「蓮華温泉の怪話」より遡る文献に依拠したとは思いも寄らないでしょうから、意図不明瞭な書き換えを数え上げて末広氏の姿勢を手厳しく批判することになっていたでしょう。……思えば危ういところでした。
 さて、民俗学関係の雑誌だからと云ってそのまま信用出来る訳ではありません。――語りをそのまま記録しても、2011年11月9日付「七人坊主(16)」や2011年11月22日付「七人坊主(21)」等に取り上げた、矢口裕康の八丈島の伝承の断片のように*1、読めたものではありません。そこで「再話」が行われる訳ですが、少なからぬ民俗学者が、この伝承資料の読物化に手を染めています。人によっては原資料を公開せずに「再話」もしくは要約したものを示して済ませる場合も、少なくありません*2。ですから伝説や昔話、或いは伝承されてい(とされる)怪談を資料として扱う場合、それを記録し、発表した人が、どの程度、内容や文章を整える人なのか、査定する必要がどうしても発生するのです。(以下続稿)

*1:これはちょっと極端な例でした。――逆に、話を盛り過ぎて、文章化に適さない語り手もいますし、そうでなくても聞いている分には疑問を感じなくても、文字にするといろいろ不足するように感じられるのが普通です。

*2:読物化に労力を傾けるよりも、伝承の経路や環境について記録することに重点を置いて、きちんと資料としての使用に堪え得るものを示して欲しいのですが、……なかなかそうも行かないものでしょうか。