瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(53)

・末広昌雄「山の伝説」(7)
 昨日の続きで、仮に【B】導入〜時期の説明とした部分を対照させて見ましょう。要領は昨日示した通りです。
 「蓮華温泉の怪話」一九九頁5〜6行め

 明治も三十年を数えて、其の年の秋のことであった。浴客もすっかり山を下って、宿はもう冬/籠りの準備をしようとしている頃であった。‥‥*1


 「深夜の客」一九〇頁7〜8行め*2

 大正三年の秋――山峡の秋は深んで浴客も山を下った。そして、宿は長い雪の冬を迎えて冬ご/もりをする準備に取かかった。*3


 「山の宿の怪異」13頁上段13行め〜中段9行め

 それは明治も、たしか二十五、六年であっ/たかと思うが、その年の暮もあとわずか二、三【上段】日に迫ったある日のことである。
 さすがに山峡も冬仕度を終わり、新雪も過/ぎて今や根雪と変わり、日一日と雪が降り積/もってゆくのであった。それでも少数の物好/きな浴客がいたが、彼らも雪に閉じこめられ/ないうちにと山を下ってしまい、今は客一人/もいない本当にがらんとした寂しい宿になっ/ていたのである。そして宿も、冬ごもりの仕/度に取りかかっていた。


 まづ事件が起こった年について、平成4年(1992)の「山の宿の怪異」が明治25年(1892)26年(1893)、昭和9年(1934)の「蓮華温泉の怪話」が明治30年(1897)、そして昭和3年(1928)の「深夜の客」が大正3年(1914)と、後から発表されたものの方が時期を遡らせています。このうち「蓮華温泉の怪話」の時期については、東雅夫の白銀冴太郎・杉村顕道同一人物説に基づいて、8月15日付(34)の註に、越中富山県)からの逃亡ルートと鉄道と云う観点からの推測を示して置きました。
 さて、「深夜の客」に依拠したと思われる「山の宿の怪異」が「明治も、たしか二十五、六年であったかと思うが」と遡らせている理由は、正直、分かりません。他の部分では昨日まで見てきたように「深夜の客」と酷似しながら、これは大きく食い違っております。或いは「蓮華温泉の怪話」が「明治も三十年」としているを、直接見たのではなく登山仲間から何となく聞くなどして、書き換えたのかも知れません。しかし「であったかと思うが」と、まるで当事者の回想のように書いているのが妙です。
 それ以上に妙なのが、「深夜の客」と「蓮華温泉の怪話」があっさりと済ませている「冬籠り」に関する説明です。(以下続稿)

*1:ルビ「そ/」。

*2:2019年8月11日追記】「そして、」を脱落させていたのを補った。

*3:ルビ「/とり」。