瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

川端康成『朝雲』(7)

・「文學ト云フ事」(3)縄跳び
 昨日の続きで、まづ縄跳びの場面を見て置こう。『川端康成全集』第七卷218頁3~16行め、

 冬が來ると學校の庭で繩飛びがはやつた。偶然だらうけど、私が飛び込んだところへ、あの方も入つてらした。私の肩につかまつていつしよに飛んで下さつた。私は足がすくんで直ぐ繩にひつかかつた。あら、だめぢやないの。」と、あの方は私の肩を搖すぶるやうにおつしやつた。/「すみません。」と私はしをしを繩から出ようとした。あの方は私の肩に手をかけたまま、「もう一。」と繩を持つ少女の方へ催促なさつた。繩はまた廻りはじめた。私ははつと目をつぶつて飛んだ。なにも考へないで、ただもうあの方の體のリズムにつれて飛んだ。いつまでも飛んだ。輕かつた。ばねじかけの人形のやうにとめどがなかつた。痺れて知覺を失ひながら、しかし調子よく飛んだ。合はせた睫に熱い涙が溢れて來た。あの方の呼吸ははずんで、私の顔にかかつた。「もうだめよ、もうだめよああ、くたびれた。」と私の肩から手を離して、あの方は繩を出ておしまひ/になつた。私はすつと涼しくなつた。それでも私は飛びつづけた。涙がとまるまでは飛んでゐるよりしかたがなかつた。
 私が學校で泣いたのは、踊の稽古の時、あの方のハンカチを顔にあてながらと、今と、二度だ/つた。それからしばらくの間私はたびたび繩飛びの夢をみた。夢のなかでは、土地がなく、私は/暗い底へ落ちて、目を覺ますこともあつた。


 この場面が終わるや、石橋蓮司(1941.8.9生)が寺の境内で縄跳びをする様子が映る。yen-rakuウェブサイト「interzone」の「『文學ト云フ事』アーカイヴズ」の「第17回 川端康成『朝雲』」の、yen-raku氏の「■所感・その他」に拠ると「ちなみに予告人のロケ地は護国寺 (東京都文京区)である。」とある。その護国寺の参道で石橋氏は草履履きで両足をずらして着きながら、

「いやぁ、縄跳びと云うのは、実にエロチックな遊びじゃありませんか。いつ終わるとも知れない無限の円環運動。これこそが、禁断のエロスのカタチなんですなぁ。いやぁ。エロスは疲れますなぁ。いやぁ。はぁ。」

と言うのである。yen-raku氏の「■所感・その他」に「文學ノ予告人が石橋蓮司という時点ですでに制作者サイドの勝ち。なんと彼は縄跳びまでしてしまうのである (笑)。‥‥」と指摘しているように、石橋氏は何ともとぼけた味を出している*1。――私は29年東京とその近辺にいながら、何故か護国寺に行く機会がなかったのだが、先月、夕方に池袋から飯田橋まで歩いて、初めて護国寺の脇を通った。出来れば石橋氏が逍遥した参道や、石橋氏の背後に慈顔を見せていた石仏の如来を拝みたかったのだが、寒々と曇って既に薄暗くなった時分だったので断念した。
 さて、桃色の太字は井出薫のナレーションで読み上げているところ。そして黒の太字にした作中の台詞は、無声映画風に黒の画面の中央に楷書体縦組み白抜きで入っている。異同は「偶然だらうけれど」を「偶然だろうけど」と読んでいることと、「すみません」の台詞がインタータイトルでは「すいません」になっていること、それから2段落め、縄跳びの夢では2人のセーラー服少女の廻す縄に、宮子1人が飛んでいる場面を遠くから写す。
 これは「四年生」今の高校1年生に当たる学年の冬である。しかし、それにしても音楽の嵌め方(音ハメ)が絶妙である。前回見たように André Gagnon の “Lettre à Clara” なのだが、――乙女たちの大縄跳びにこれ以上合う音楽が他にあろうか。
 だから「冬になると」なのに宮子をはじめとする生徒たちが夏服のセーラー服であることをうっかり見逃してしまう。――やはり「『文學ト云フ事』アーカイヴズ」の、「第9回 田山花袋『蒲団』」についての「■メモ」に、急遽予定していた作品を差し替えたことで「放送の当日、深夜12時 (オンエア1時間前) にフジテレビに納品されたらしい」とあるのだが、本作はそこまで切羽詰っていなかったにせよ、全体にあまり余裕のないスケジュールで制作していたらしく、本作は8月30日深夜放映だからその、本当に直前の撮影であったのであろう。それでも長袖セーラー服を着せるなどしても良かったようにも思うのだけれども、そんなことを気にさせない勢いがあってうっかり見てしまう。
 ちなみに「あの方のハンカチ」の場面は「三年生」の「六月」のことで、これも予告編に使われているので、予告編について検討するときに詳しく述べることとしたい。
 女子高に勤めていたとき、縄跳びを見た記憶がない。運動会等でもやらなかった。――私の小学生の頃には、確かに冬、毎日のようにこのような大縄跳びをした記憶があるのだが、それが何年生のときだったか、6年生でないことは確かだが、もう思い出せないのである。(以下続稿)

*1:3月31日追記】他の「文學ノ予告人」が2回以上務めているのに対し、石橋氏だけがこれ1回きりである。