瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(183)

田辺聖子『私の大阪八景』(2)
 以前『田辺聖子全集』を見たとき、エッセイで赤マントに言及していたのを見付けたように記憶するのだが、僅かな記述で、どのように位置付けて良いか、記事にするには工夫が必要だったので保留にしていたことを忘れていた。しかし本作での記述を引けば、そうした作業を別にする必要もなくなるので、はてなダイアリーから移行したときに別に保存して置いたエッセイに関する「下書き記事」はしばらく探さないで置く(件数が多いので探すのが大変なのである)。
 『全集』第一巻の奥付の裏にある目録「田辺聖子全集 全24巻 別巻1」の最後、25冊めの1行は「別巻1 年譜/作品解説/田辺聖子論/索引」とあるのだが、『全集』別巻1では、奥付からメモ欄を4頁を挟んで同題の目録があるが、25冊めは「別巻1 年譜/対談/田辺聖子論/初出一覧」に代わっている。この当初予定されていた索引があれば、総索引ではないだろうけれども、事項索引を(たとえ「赤マント」が拾われていなくとも)辿って当たりを付けて行くことは出来ただろうに。そもそも、別巻は1冊だけなのに「別巻1」となっているのも妙である。もっと前の段階では複数の別巻が計画されていたのであろうか。今からでも「索引」を「別巻2」として、人名・書名・事項について付けてもらえないものか。「作品解説」は、各巻の「解題」や「解説」があるから割愛されても仕方がないと思う。しかしどのような解説をまとめて付けるつもりだったのだろうか。
 ところで『全集』別巻1に入った「対談」は、『全集』第一巻の目録では「24 対談/随筆/単行本未収録作品(新編集)」に入っていた。『全集』別巻1の目録では「24 随筆Ⅱ/単行本未収録作品(新編集)」となっている。
 ついでにその他の異同も拾って置くと、第一巻「20 道頓堀の雨に別れて以来なり[下]/猫なで日記|22 姥ざかりの花の旅笠/文車日記 ほか|23 随筆(新編集)」の3点が、別巻1「20 道頓堀の雨に別れて以来なり[下]|22 姥ざかりの花の旅笠/文車日記|23 随筆Ⅰ(新編集)」と変わっている。「猫なで日記」や第二十二巻の「ほか」の分は何処に行ったのか。細目の入った内容見本を「田辺聖子全集月報」別巻1(二〇〇六年八月・8頁・B6判折本)5~7頁「『田辺聖子全集』目録」と比べれば分かるだろうけれども。
 さて、話を『私の大阪八景』に戻そう。――赤マントが持ち出されるのは1作め「民のカマド」である。今、私の手許には『田辺聖子全集』第一巻と岩波現代文庫、角川文庫20485(改版初版)の3冊がある。全体の詳しい比較は別に記事にすることにして、差当り「民のカマド」のみ、比較して置こう。
・『全集』第一巻その一 民のカマド〈福島界隈〉」9~40頁。題は5行取りでさらに1行分空けて本文。
岩波現代文庫その一 民のカマド〈福島界隈〉」1~47頁。題は1頁(頁付なし)扉の左に3行取り、右側は広く余白。2頁は冒頭3行分空けてから本文。
・角川文庫20485「民のカマド/ 〈私の大阪八景〉 その一 福島界隈」5~50頁。5頁(頁付なし)扉の上部中央に2行に題と副題。6頁は冒頭3行分空けてから本文。
 ところで底本については、岩波現代文庫は268頁の次・白紙1頁を挟んで奥付の2頁前(頁付なし)に下部中央、明朝体縦組みで小さく「本書は一九六五年、文藝春秋新社より刊行された。」とある。角川文庫20485は奥付の前の頁(頁付なし)に明朝体縦組みで中央下寄せで「差別語」等の扱いについての(編集部)の断り書があり、1行分空けてその左下に「本書は、一九七四年十一月刊行の/角川文庫を改版したものです。 」とある。『全集』第一巻553頁の2頁後・奥付の2頁前(頁付なし)に中央下寄せで明朝体縦組みで小さく示される「編集の基本方針」、*で5項目あるうち2項めに「* 底本には、原則として現時点での著者の最終仕上げ本〔最新版〕を用い、初/  出誌紙や各種異本も参照した。」とあるから、前回引いた「解題」の〔収録〕の最後に挙がっていた岩波現代文庫と、題・副題等一致する理屈である。
 それでは、まづ作中の時期について見て置こう。冒頭の段落、改行位置は全集「/」岩波現代文庫「|」角川文庫「\」で示した。

 来年は女学校へはいらなければならない。いつもそのことが頭の上にかぶさってい\て、|トキコはゆううつ/になる。そやから六年生になるなんて、イヤやというのだ。


 『全集』別巻1の「年譜」を参照するに、田辺氏は昭和3年(1928)3月27日生、早生れで昭和9年(1934)4月条「大阪市立上福島尋常高等小学校に入学」している。――本作の主人公「トキコ」が作者の分身であるとするならば、「来年は女学校へ」進学する6年生は昭和14年度と云うことになる。「年譜」を見るに、田辺氏はその年度末、昭和15年(1940)3月条「上福島尋常高等小学校を卒業」しているのであるが、作中の時間はこの6年生の1年間にほぼ終始し、最後に卒業・進学後のことが少し描写されている。そして赤マントもこの間のこととして扱われているはずなのだが、どうも従来これを読んだ人たちは、そうは思わなかったらしい。だからこの田辺氏の小説で取り上げられていることが特に注意されることなく来ていたらしいのである。(以下続稿)