・田辺聖子『私の大阪八景』(7)タヌキ先生②
それでは、赤マントに関する箇所の初めの方を引いて置こう*1。『全集』第一巻30頁18~20行め(長篇全集217頁下段15~19行め・岩波現代文庫33頁11~14行め・角川文庫(改版)36頁15行め~37頁1行め)、傍点「ヽ」の打ってある字は再現出来ないので仮に太字にした。
トキコもいっぺん叱られた。赤マントという流言ひごが]はやって、暗い校舎の隅や、/お|便所へは一人でゆ/くものが]なくなった。トキコは時間中に、その小説を書いていた/の]をみ|つけられたのだ。
「立て」とタヌキ先生はいった。
ここで気になるのは、6月27日付(185)に引いた『楽天少女 通ります 私の履歴書』に「五年」から「六年生」に掛けての担任について「今度の先生はいかにも公平でさっぱりと、教えかたも明快で」とあったことで、どうも「タヌキ先生」とは別人らしい。6月27日付(186)に引いた『田辺写真館が見た ”昭和” 』19章め「昭和の子供の夏休み」の最後、198頁1~9行めにも、
――昭和十三、四年頃、英霊を迎える粛々たる弔旗の行列は、どこも長かった。町内の/人々、在郷軍人、婦人会の人々にまじって、小学生も加わらなければならない。あちこち/の小学校から、代表で級長・副級長が参加する。五年生になってもあいかわらず私は、カ/ワバタくんとペアであった。〈しんどいね〉〈うん〉と小さくいい合った。長い道のりだっ/た。
五年生から担任の先生が変り、今度の先生はやさしい男先生だった。行列から学校へも/どると、〈ごくろうさん〉と迎えて下さり、〈タナベ、しんどかったやろうね〉と、足の悪/い私をねぎらって下さった。それは生々世々*2の前世、すべての男親のねぎらいのように、/優しく聞かれた。
とある。なお、足のことは6月27日付(185)の初めに引いた、主人公(=田辺氏)のみ福島小学校へ通わされたことを述べた次に、『全集』第一巻14頁17~18行め(長篇全集206頁下段21~23行め・岩波現代文庫10頁6~7行め・角川文庫(改版)13頁15~16行め)「‥‥。母ち]ゃんは「トコ/ちゃんは、足がわるいからち|かくの学校のほ]うが/いいでしょう」という。‥‥」と、その理由として持ち出されていた。その意味からしても6月28日付(186)に見たように、舞台は上福島小学校ではあり得ないのである。
それはともかく、ではタヌキ先生がどこから来たのかと云うと、それよりも前の担任を拉して、ここに嵌め込んで ”小説" に仕立てているのである。また脇道に逸れてしまうが、次回はタヌキ先生の出自について確認して見よう。(以下続稿)
【7月26日追記】『全集』別巻1、421~477頁、島﨑今日子「夢みる勇気 新しい女性文学の誕生」に、428頁1~2行め「・・・・。田辺には左脚に先天性股関節脱/臼という疾患があった。・・・・*3」とある。また、428頁18行め~429頁8行め、島﨑氏が平成12年(2000)に取材した、川端晃(2004歿)*4の回想が紹介されている。