瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(184)

田辺聖子『私の大阪八景』(3)
 昨日に続いて、主人公「トキコ」の設定と、作者の田辺氏の経歴とを比較して、と云うことを一応考えていたのだが、これを始めるとまた相当長くなってしまう上に、既に田辺氏を研究している人によって済まされているであろうから、当ブログではそこまで踏み込まないで置くことにする。
 作者はどう云っているかと云うと、『全集』第一巻535~548頁、田辺氏本人による「解説」、題して「わが感傷的文学修行の日々/  なぜだかいつもウキウキしていた」の冒頭、中原中也の詩の引用に続いて535頁11行め~536頁8行め、

『私の大阪八景』は私の幼年時代から戦時下の女学生時代の体験を、昭和三十年代後半に友人らと作って/いた同人雑誌「のおと」(のち「大阪文学」と改題)に連載したもの。その最中*1に、もう一つべつの同人/雑誌「航路」に書いた「感傷旅行*2」が、昭和三十八年度下半期の芥川賞となってにわかに怱忙*3をきわ【535】めたものだから「八景」は中断していた。そこで、昭和四十年に続編「われら御楯」を「文學界」に書き、/あと一編「文明開化」(これは戦後のこと)を書き下し、同年十一月に『私の大阪八景』として文藝春秋/新社から刊行したものだ。*4
 私は当時三十七歳であった。
 たかだ三十七ぐらいで、往時を回顧しても何ほどのことやあらん、と現在では思うけれども、この時代/の三十七年というのは、天下泰平の年月ではなかった。この短い歳月に、戦争、敗戦、祖国復興という、/驚天動地の時間が流れたのである。私自身の人生も、風に吹きたてられる木の葉のように、めまぐるし/く翻弄された。*5

とあり、そして546頁3~6行めに、

 この巻は、〈子供のころと、その時代〉、及び〈文学少女が、物書きという人生を手にしてしまった、時/代とその事情〉の物語である。
 そして、ことにも『私の大阪八景』は、書いた当時そのままの文章を残し、ほとんど削除改変しなかっ/たことをいっておきたい。

とある。〈文学少女〉云々は、185~528頁「しんこ細工の猿や雉」を指している。
 さて、ここに特に本作について改訂が殆どないことを断っているが、昭和50年版の鴨井羊子装幀について述べてからまた改めて、13~14行め、

 なるべく元のまま、当時の時勢や風俗をありのまま伝える、というつもりで、あえて削除・改変しない/ことにした。

と断っている。 
 それでも小説なのだから事実そのままとは受け取られないので、割り引いて考えないといけないが、骨子となる体験は確かに田辺氏本人にあったものとして、一応は考えてみることが許されるであろう。と、ここまで確認した上で、次回から赤マントについての記述の検討に入ろうと思う。(以下続稿)

*1:ルビ「さなか」。

*2:ルビ「センチメンタル・ジヤーニイ」。

*3:ルビ「そうぼう」。

*4:ルビ「みたて/おろ/」。

*5:ルビ「//きようてんどうち/ほんろう」。