瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(192)

田辺聖子『私の大阪八景』(11)
 昨日、主人公トキコが授業中に小説を書いていることをタヌキ先生に見つかって、教壇で級友たちに見せるように言われて笑われるところを見たが、今日はその続きで読み上げさせられるところを抜いて置こう*1『全集』第一巻32~33頁3行め(長篇全集218頁下段2行め~219頁上段10行め・岩波現代文庫35頁6行め~36頁13行め・角川文庫(改版)38頁8行め~39頁16行め)、傍点「ヽ」の打ってある字は再現出来ないので仮に太字にした。

「よめ」と先生はトキコをこづいた。「そんなつまらんこ]とを授業中にしててもええ/と思|うのか、声を出し/てよんで]みい」
 トキコはためらった。でもしかたがないので、
「赤マントは支那軍のスパイであることがはんめいした」]とよみ出した。
「ばかッ」
 と先生は頭をこづいた。トキコはよろけながら、よみす]すんだ。
「そのすじの調べによると、赤マントは子供をとってくう]かいぶつであった。たんて/い|が誰もいないはずの/便所の戸]をあけると、パッと赤マントは、マントをひるがえし【角38】てお]そ|いかかった。そのとき、けいかん達が/包囲してぴすとる]を発射した。たまは赤/マントの体|からはねかえり、赤マン]トはカラカラと笑ってけいかん/達をあざ笑いなが/ら、屋根]の上に|とび上がり、マントをひろげて高らかにうたった。【岩35】*2
 
  もない ぴんが
  りもせんこと ちゃごちゃと
  くでもないこと 面鳥
  ったろか うたろか
  んでいけェー」
 
 教室中はげらげらと笑った。隣室の先生が何ごとかと顔]をのぞけていた。トキコは/ちょ|っと得意になって/ノートの]かげから顔を出してアカンべーした。
「こらッ!」
 と先生がトキコの頭をこづいた。その指先は固くて痛か]ったが、それよりもトキコ/は先|生の悪意の痛みを【全32】強くかん]じて、しょぼッとした。
「落第して、もっぺん、一年生からいくか? ああん?」
 赤マントの小説はとりあげられ、目の前で破られ、先生]はさらに力まかせにねじ/って屑|籠*3へすてた。【角39】


 数え歌は田辺氏の創作らしい。便所に出没する噂は各所で行われていたが、警官に包囲されて拳銃で狙撃される展開は「天下一品のぼうけん小説 !! 」らしい想像の産物なのであろう。田辺氏の想像する赤マントのビジュアルは前回引いた「さし絵」から窺われるが、これも東京でこの流言が広まり始めた頃の傴僂男とは随分変わっている。この辺りの変遷と2013年11月26日付(36)に引いたような「黄金バット」の影響が実際あったかどうかと云う点についても、もうそろそろ整理して置くべきだろう。
 ここで注意されるのは「支那軍のスパイ」と云うところで、このようなスパイ説としては、やはり女性が書いた小説になるが、2013年12月27日付(67)に引いた中島公子(1932.11.24生)の短篇集『My Lost Childhood』所収「坂と赤マント」に、主人公の友人が「敵国のスパイ」だと云う推測を話す場面がある。但し中島氏は東京で赤マント流言が広まった昭和14年(1939)冬にはまだ学齢に達していない、すなわち昭和14年の赤マント流言に直に接することのなかった世代で、どうもこれが、中島氏の次女中島京子(1964.3.23生)が赤マント流言を昭和16年(1941)のことと(忌憚なく云えば)誤って、2013年12月21日付(61)に引いた直木賞受賞作『小さいおうち』に登場させた根拠となったらしいことは2013年12月22日付(62)以降しばらく検討した通りである。(以下続稿)

*1:8月17日追記田辺聖子長篇全集1『花狩 感傷旅行 私の大阪八景』の本文も見た。一々新たな註で追加を断ると煩いので、以下、括弧の岩波現代文庫の前に長篇全集として追加した。また本文の改行位置も「 ]」で追加した。

*2:『全集』第一巻岩波現代文庫は以下の数え歌の前後を1行分ずつ空けるが、角川文庫(改版)は数え歌の前を詰めている。明らかに不体裁で、改版前のものを確認する必要がありそうである。長篇全集も前後1行ずつ開け、数え歌の最後が218頁下段22行め、そして219頁上段冒頭1行分空白になっている。

*3:ルビ「くずかご」。岩波現代文庫・角川文庫(改版)ルビなし。