瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

英語の思ひ出(1)

 昨日の続きとして書き始めたのだが、在阪ラジオ局とは全く関係のない文章となったので改題した。

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 1度めの兵庫県への転居の折――小学3年生の私は、静岡弁をさんざん馬鹿にされた。変な言葉を話す奴だと云うのである。しかし、私からしたら、彼等の方が可笑しな言葉で喋っているので、清水の旧友たちが皆喋っている私の母語*1を馬鹿にされる謂れこそなかった。だから随分反撥したものだけれども、それこそ多勢に無勢、無駄な抵抗と云う奴で、何とか3年掛かって漸く関西弁をモノに出来たかと思った頃、また父が転勤になって横浜市に転居することになり、全ての努力は水泡に帰したのであった。
 それがまた、私の中学卒業を待って既に父が単身赴任していた兵庫県に転居することになったのである。兵庫県と言っても地域が違ったのだが、まぁ同じ関西弁と云うことで、私は今度こそ、関西弁は習得済みだからストレスなく溶け込めると思ったのだが、結局、偽関西弁を話す変な奴にしかならなかった。
 自分では周囲に合わせて喋っているつもりなのに、可笑しがられる。――ここで私は、自分が自分で思っている以上に不器用であることを思い知らされた。そして、この不器用さは今でも年ごとに深刻さを増しているのだけれども。
 さて、この2度めの兵庫県への転居の前、私はK大学を入試問題漏洩で馘首されたH先生と云う上品な紳士のお宅に英語を習いに行っていた。
 私の英語が壊滅的な成績であることに悩まされていた両親が、学区一の進学校に進んだ兄が評判を聞き付けて来たH先生のところに、私を通わせることにしたのである。
 H先生は当初、余りの出来の悪さに呆れ返っていたが、英文法のテキストと問題集を先生の指示に従ってこなして行くうちにスラスラと読めるようになり、高校入試では多分満点を取ったと思う。しかし兵庫県に転居してH先生と縁が切れてしまった私は、忽ちの内に英語の成績を急降下させてしまったのだけれども。――もし転居せずに、H先生のところに通い続いておれば、と思わなくも、ない。
 H先生は白髪で長身痩躯、お洒落で、面長で歌舞伎役者のように目鼻立ちがくっきりとして、坂の途中の古い洋館にゆったりと住まっていた。初め、K大学を何故辞めたのか分からなかったが、後に父の書棚にあった『山藤章二のブラックアングル』の元ネタ(新聞記事切り抜き)によって、馘首されていたことを知った*2。それより後は、口コミで集まってきた学生相手に英語を教えて過ごしていたらしい。
 授業は書斎で、便所を借りたことくらいはあったと思うのだけれども、便所も玄関も覚えていない。家族がいたのかも記憶していない。授業は複式でやったこともあるような気がするが、前の人がまだ続けていたり、後の人の時間に食い込んだりしただけだったかも知れない。そんな折に他の生徒と顔を合わせたのだけれども、真面目そうな(多分兄と同じ高校の)女生徒や女子中学生とかであったから、話すこともなかった。学生は書斎の年季の入った応接セットに座って、応接テーブルにテキストやノート、英和辞典を広げて、まづ課されていた宿題を読み上げて点検してもらう。先生は離れたところにある椅子にゆったりと掛けて誤りを正し、次の課に進んで要点を説明して練習問題に取り組ませる。先生が応接セットの方にやって来ることはなかったように記憶する。先生の専門は今検索するに英語ではなかったのだが、しかし中学の英文法など赤子の手を捻るようなものだったのだろう。文法の理解を目的としてやるのだから、問題は辞書を引きながらやる。時間の制限もないが、別に粘っても仕方がないからさっさと片付けて確認してもらう。解答を言うと理解の不十分な点が正される。確かそんな按配で1日に30分だったか1時間だったか覚えていないが、1回に1課か2課のペースだったように思う。そしてその日の課業を了えると宿題が課される。それを1週間後にまた見てもらうのである。
 辞去すると既に暗い。急な坂を下って、始発の駅前から1つ先のバス停で市バスに乗る。途中、狭隘な駅前商店街を通るので女性の車掌が乗務している。いつも余り混んでいなかった。薄暗い蛍光灯の照明で、窓外も暗い。ちょっと田舎じみていて何となく物哀しく、これに乗るのも楽しみの1つであった。1度だけ、同級生と乗り合わせたことがある。後ろの席で、小声で私の渾名を呼ぶ声がするので振り向くと、陸上部の女子がいた。
 さて、落ちるはずがなかったのだけれども、とにかく兵庫の県立高校に無事合格してその報告旁々伺うと、学区の事情を御存知ないH先生は私の成果報告に満足げな様子で「初めは余りに出来ないのでどうしようかと思いましたよ」との感想(!)を述べ、そして普段は特に雑談などもないのに、最後に「××君。関西で標準語が話せるとモテますよ」と言われたのである。しかしながら、私は試さなかった(笑)。試しても多分モテなかったろう。そして、若きH先生ならば、さぞかしモテたことだろう、と、当時は思いもしなかったが、今にして思うのである。(以下続稿)

*1:満4歳の夏から満9歳になる直前まで過ごしたので、静岡弁が一応「母語」と云うことになるのだろうが、今や全く喋れない。

*2:兵庫県に転居してからだったと思う。