瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(070)

・遠田勝『〈転生〉する物語』(29)「二」
 今週、仕事の方で何ヶ月か前にやった作業を久し振りにやって見たのだが、吃驚するくらい、捗らなかった。機械が新しくなったと云うこともある。それと同じで、遠田氏の本の検討も「一」とこれに関連する「二」の1節めを終えて、しばらく置いてから再度取り掛かろうとしたら、もう勝手が分からない。いや、これまでのように1節ずつ、遠田氏の参照している本を確かめて、これに遠田氏の見ていない資料や、遠田氏に欠けている(もしくは不十分な)視点を加えて見て行けば良いのだけれども、流石に松谷みよ子の「民話」を検討し直すのは大仕事である。似たようなことを繰り返し書いているので材料を揃えるだけでも大変だ。今の私にはその準備も出来ていないし、そこまでの興味もないのである。
 もちろん、私も松谷氏の影響を強く受けている。――凝り性だった私は、幼稚園児から小学3年生くらいまで、父がもらってきた上半分に大きな写真、下半分に12ヶ月が並んでいる大判のカレンダーの、写真(室生寺金堂の十一面観音)が切っ掛けとなって仏像にのめり込み*1、両親はこれを利用して、習字の段が上がったらご褒美に写真集を買ってやる、などと餌をぶら下げたものだから、随分色々なことに励んだもので、今でも当時(昭和50年代前半)買ってもらった日本美術全集の仏教美術関連の巻が10冊くらい手許にある。奈良や京都、鎌倉の国宝の仏像がある寺院も粗方廻った。ところが小学4年生、5年生の頃には何故か火山に興味が移って、自宅前の公園の砂場に、長雨の後、水が溜まるのである。その水を使って、桜島の溶岩流を(それなりに)再現したり、溶岩ドームを作ったり、火山島を作ったり、山体崩壊させて津波を発生させたり、妙なことをして遊んでいた。晴れが続いて水溜まりがなくなれば、乾いた砂と湿った砂で成層火山を拵えて、テフラを風下に降下させたり、火砕サージを流下させたり、今だったら簡単に地質図や航空写真、それから噴火の動画を見てもっとリアルに実際の火山と噴火活動を真似するところだったのだが、当時は書籍しかなかったから、多くはない火山の専門書を読み漁り、世界の火山の噴火記録を纏めたノートを拵えたのである。今でも世界の主要な火山とその大規模な噴火については諳んじている。
 ところが父の転勤に伴って横浜市に転居した際に、このノートを紛失してしまったのである。横浜の図書館であれば、噴火のデータを復原するのは難しくなかったかも知れないが、火山模型(?)の方に問題があった。今度も自宅近くに公園はあったのだけれども、以前住んでいた場所の公園とは勝手が違っていた。以前は、砂場が築山と道路に沿った植込みに挟まれた、ちょっと谷間みたいになったところにあって、殆ど人に邪魔されずに遊ぶことが出来た。ところが今度の公園は狭くて砂場が目立つ。かつ、もうそろそろ砂遊びと云う年齢でもなくなっていた。
 転居に伴って習字は止めてしまったが電子オルガンの教室は兄も通っていたので新しく探して通うことになった。電電公社の社宅で、30歳くらいの落ち着いた小柄な先生だった。1年ほどで妊娠出産のため教室を止めてしまって、別の教室に移り、そこで私は止めてしまって今は楽譜も読めない。それはともかく、この先生が読書家で、レッスンの後で少し休憩するのだが、本棚にぎっしりと、文庫本が何百冊と詰まっていて、今覚えているのは百目鬼恭三郎朝日文庫『奇談の時代』だが、松谷氏の民話の本もあったと思う。「まんが日本昔ばなし」なども見ていたけれども、本格的に昔話に興味を持つに至ったのは、この先生の蔵書の影響があったのではないか、と今にして思うのである。なお、今検索して見ると、横浜市で先生と同姓のピアニストがヒットした。珍しい姓で、年恰好からしても、先生が教室を止めてから出産した息子なのではないか、と思うのだけれども。
 それはともかく、他に切っ掛けも思い浮かばないのだが、火山について、実践(?)の場を失っていた私は急速に昔話へと関心を移して、小学6年生のうちに老松町の図書館まで、当時の京急の子供料金で片道50円、駅に日の出劇場というポルノ映画館のチラシが張ってあるのには辟易したが、通っては『日本昔話集成』、さらには『日本昔話集成』に採録されている戦前の昔話集の原本『昔話採集の栞』やら『安藝國昔話集』やら『島原半島民話集』やらを借りて、読んだのである*2
 そして中学生になってからは、父の会社の部下の家に通った。何故だか覚えていないが両親とともにその家に遊びに行き、やはり本棚に文庫本がぎっしり詰まっていたのだが、そこの、30過ぎくらいの奥さんが昔話の好きな人で、意気投合してしまったのである。それで以後しばらく月1回くらい、私1人で放課後に横浜駅で乗り換えて遊びに行って、本を貸してもらい、随分お喋りの好きな人で、暗くなるまで何やかやと話し込んだものである。旦那の方は理系の技術職で口下手で殆ど喋らない。いや、大体不在だったけれどもたまに顔を合わせても管理職の倅だと云うだけで緊張するらしく、顔を真っ赤にして私に敬語で話し掛けて来るのには閉口した。保育園児の息子がいて、その息子の同級生たちが夜中まで起きている、と云う話を聞いて、羨ましいと云うより恐ろしく思ったことを覚えている。
 もちろんここにあったのも本格的な昔話集ではなくて、松谷氏の民話の本だったと思う。して見ると、確かに斯界に於ける松谷氏の影響力が絶大なものであったことを、私は身を以て感じていた訳である。
 父の転勤で中学卒業後、兵庫県に転居したので縁が切れてしまったのだけれども、その後、また関東に戻って来て、私が学部生の頃だったか、旦那がまだ40代で死んだのである。それで私は横浜市戸塚斎場まで出掛けて葬儀に参列したのである。奥さんはかつて「私なんていつも離婚を考えているよ」なんて言っていたのだが、流石に泣きじゃくっていた。太っていて見るからに健康そうでなかったけれども、まさかこんなに早く死ぬとは思わなかったろう。息子も中学生になっていた*3
 それはともかく、音楽教室か、或いは父の部下の家のどちらかに、遠田氏が「二」章の6節め「増殖する「雪女」と消える足跡」に取り上げている、角川書店版『日本の民話』全12巻の文庫版があって、その『現代の民話』の巻が、私の親類縁者では昔話採集の望みがないことを知ったとき、私を同級生たちからの怪談聞書へと導いたようなものだから、やはり相当影響を受けている*4
 しかし、切っ掛けになったことは確かだけれども、『日本昔話集成』に手を伸ばすようになって、本格的な昔話集に目を通して行くうちに、2019年9月14日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(117)」の中程に述べたように、文飾を加えずに忠実に記録すべき、との意見に共鳴して、松谷氏の「民話」には反撥を覚えるようになっていた。遠田氏が「五 遠野への道」に指摘しているように、松谷氏の「民話」の影響は(多分)現代の昔話にも及んでいる。純然たる昔話なぞ、今や手つかずの自然を探し求めるようなものである。もとより観光資源として演じられる昔話には私は興味を持てない。いや、私が中学・高校時代に同級生たちから聞いた怪談の世界にも松谷氏とその仲間たちが割り込んできて、児童書を子供たちの中に投げ込んで食い荒らしてしまった。昔話だけではなく怪談も「民話」の影響下に入ったことを感じたとき、私はもう聞書を止めて、専ら記録されたものを、細かく検討する方向へと舵を切ったのである。(以下続稿)

*1:実は仏像の前はカレンダーにのめり込んでいて、縦に数字を並べて書いたり、十数年先のカレンダーを拵えたりしていた。だからこのカレンダーも、父が私にカレンダーを与えて悦ばせようともらってきたのが、私は写真の方に興味を覚えてしまったのである。

*2:実家には当時私が原稿用紙に新字・現代仮名遣いに直して書写したこれら昔話集の抜萃が何千枚か、残っているはずである。

*3:両親の名前は覚えていないが、息子の名前を覚えていたので検索してみるに、玉田圭司(1980.4.11生)とチームメイトだったと云うサッカー指導者がヒットした。年齢は合うようである。横浜市からその後転居したのであろうか。

*4:友人の祖母で話をよく知っていると云う人に紹介されて、1度だけ長時間話を聞いたことがある。「ズイトン坊」もどきの話もあったが母親の体験談と云うことになっていた。寒戸の婆のような神隠しの話もあったが、熱烈な信者らしく日蓮上人の奇瑞譚を見て来たように話すのには吃驚させられた。