・細目(2)
昨日の続きで第二章について。要領は昨日と同じ。
第二章 昭和戦前「青山」の街・人・暮らし
【1】お屋敷も大正モダンもあった街 68(1)
【2】岡本一平・かの子のいた青山高樹町という街 69(5)
【3】お屋敷の名残が…… 70(6~72・13)
71頁写真、上「岡本かの子/一平の妻、洋画家故岡本太郎の母。/歌人・小説家として大正・昭和を/通じて活躍。独特の風貌とユニー/クで大胆な化粧、装いでも有名だ/った」下「岡本一平/岡本太郎の父、かの子の夫。漫画家/として活躍。風刺漫画は一平漫画と/して漫文とともに一世を風靡した」
73頁写真、上「昭和16年の高樹町電車通り。現在骨とう通りとして賑わっている」下「昭和32年の高樹町電停付近」
【4】「あ〜そぉ〜びぃ〜まぁ〜しょ」が連呼され 74(1~13)
【5】およそのおうちや原っぱで 75(1~13)
【6】「ノー病院の焼け跡」原っぱ 76(1)
【7】関取「鯖折りの文ちゃん」を見た日*1 77(2)
78頁写真「青山名所だった青山脳病院。第5期工事を終えた明治40年頃には、敷地4500坪1町5反歩、/建坪1976坪、当時の職員は院長はじめ医師・看護婦から車夫まで含めて250名、入院患者/380名といわれ、青山名所に上げられていたほど。惜しくも大正13年12月29日餠つきの残/り火の不始末で全焼した」
79頁写真、上「ノー病院の焼け跡の原っぱで写生する青南小学校生徒たち。/後ろの建物は再建された青山脳病院」下「出羽ヶ嶽文治郎。愛称「鯖折りの文ちゃん」/で親しまれた。13歳で身長2メートル体重113キロという怪童だった。斎藤家の養子となった当初は医師を希望し青山学院に入学/もしたという。が、巨体を生かして出羽ノ/海部屋に入門。16歳で初土俵、大正15年23歳で関脇に昇進、身長204センチ体重203キ/ロの巨体で鯖折りを得意技とした」
【8】トンボとりと凧揚げに熱中*2 80(13~81・15)
【9】金魚池と金魚売り 82(1)
【10】街を流す物売りの声はお江戸の名残 82(13~84・15)
【11】通りを彩ったその街の人々 85(1)
【12】洋装はモダンのシンボル 87(7)
89頁図版「マレーネ・ディートリッヒのようにヴェール/のついた帽子が流行」
【13】錦紗・縮緬を着るのは非国民*3 90(2)
91頁写真「男性の服装の変遷」上「縞の着物に絽の夏羽織、カンカン帽も決まった/男の街着姿。大正12年」中「三つ揃いのスーツに縁なし眼鏡のダンディ、/現代とあまり変らない。昭和3年」下「和服での会合などには袴をつけて。昭和19年」同一人物。
【14】それでもよそ行きはシルクのモンペで 92(2~14)
【15】男もお洒落だったのに…… 93(1)
【16】「日赤」へ傷病兵のお見舞いが流行 93(11)
95頁写真「日赤へ傷病兵のお見舞いに。病室で兵/隊さんに撮ってもらったり(上)、玄/関前に常駐していた写真屋さんに撮/影してもらったり(下)」
【17】兵隊さんと子どもの不思議な交流 96(6)
【18】陸軍記念日もポパイの映画も同時進行 97(3)
【19】幼いながら「お国のために」 98(10)
【20】下校途中の路上で戦死者に黙祷*4 99(9)
【21】「青山館」で憧れの劇映画を 100(6)
【22】映画全盛時代の名残 101(7)
【23】居候が現実に「居・そうろう」していた頃*5 103(2)
【24】カゴにぎっしりの産直ズワイガニ 104(12)
【25】ランドセル背負ったまま歌舞伎座へ*6 105(9~106・15)
107頁写真「昭和12年の川田義雄とあきれたぼういず。中央が川田義雄(のち晴久)、後列左から増田喜/頓、坊屋三郎、芝利英。川田義雄は劇団「笑いの王国」の俳優から出発、その後あきれた/ぼういずとして浅草花月劇場で活躍し、ナンセンス歌謡漫談で人気を得た。のちミルク・/ブラザーズ、ダイナ・ブラザーズなどと編成替えをしたが、ミルク・ブラザーズ時代の「地/球の上に朝がくる~」の大ヒットで超人気となる」
【26】いまも心に鮮やかな三本の映画 108(1)
【27】美少年片山明彦の「風の又三郎」 108(11)
【28】純情武骨な「姿三四郎」スタイルが当時の主流 110(2~14)
111頁写真、上「黒澤明監督のデビュー作「姿三四郎」(東宝)。三四郎の藤田進と月形竜之介の決闘場面」下「日活の大ヒット映画「風の又三郎」。木の上にいるのが片山明彦の風の又三郎」
【29】正義派少年への憧れ 112(1~14)
【30】男の切なさをバンツマの「無法松」で知る 113(1)
【31】戦前の日本が育てた男の奥行き 114(3~12)
115頁写真「日本映画史上不朽の名演技といわれる阪東妻三郎の「無法松の一生」。(大映作品)」
【32】名作「土と兵隊」は泥濘と軍靴の記憶 116(1~14)
【33】チャンバラスターも戦争映画の将軍に 117(1)
【34】日劇七回り半事件もあった「支那の夜」の大ヒッ卜 118(2~14)
【35】「江田島」生徒への熱い視線 119(1~13)
【36】写真集『海軍兵學校』のなかの好きな人 120(1)
【37】南の国を映画で知る 121(5)
【38】娯楽のパターンは「三越食堂」でお食事 日比谷で映画だったが…… 122(10)
【39】空襲下でも映画製作が 123(7)
【40】初めて観たモンゴル相撲はおかしな踊り 124(7~125・13)
【41】ナチス・ドイツの一行の相撲観戦 126(1)
127頁写真「訪日したヒットラーユーゲントの歓迎会。神奈川県鎌倉町(現鎌倉市)。昭和13年」
【42】小旗を振ってラス卜エンペラーを熱烈歓迎 128(10~129・14)
【43】さまざまな文化に触れながら 130(1)
【44】その頃のライフスタイル 131(12)
【45】和洋折衷住宅の応接間という洋間 133(11)
【46】ねえやは貴重な家事の助っ人 134(3~135・14)
【47】着物が日常着だった頃 136(1)
【48】貸家の「貸し屋札」はどれも斜めに 137(4)
【49】子どもの成長に合わせてお引越し*7 138(5~13)
【50】茶の間は一家の団欒と情報提供の場 139(1)
【51】ちゃぶ台の洋食は西洋皿のライスカレー 139(6)
【52】うれしかった一汁コロッケ菜の日 140(8~141・14)
【53】漬物撙には季節の野菜が天井と床には保存食が 142(1)
【54】戦前の街にあった明治・大正からのおだやかな暮らし 143(5~145・12)
144頁写真、上「お手々つないで全員ゲタでお散歩。日本の夏は蒸し暑いので夏の日常の履物は素足に下駄。赤坂区青山南町5丁目84番地の著者旧宅(左側の塀)/前の姉妹。昭和15年」下「年配の人にまだ見かけた二百/三高地という髪型。大きく髪/を膨らましたこの髪型も日本/髪よりモダンだったが、女性/にも洋装がふえてくるとすた/れた」(以下続稿)