瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(23)

・『現代民話考』の青南国民学校(4)
 一昨日からの続き。
 昨日の引用中に「先にも触れたが、‥‥」とあったのは、第一章 時代の風のなかで【7】兵隊さんのいた風景の節で、冒頭、28頁8~11行め、

 もう半世紀以上も前になる戦前のあの頃、青山にはそんな自然とともにある暮らしが豊かに/残っていたが、青山はまた、あの時代を象徴するような兵隊さんの街でもあった。
 というのも、私たちの住宅地と、通っていた「青南小学校」の周辺には、軍関係の施設が数/多く点在していたからだった。

とあって、「代々木練兵場」「麻布一連隊」「近衛連隊」「陸軍大学校」と列挙して行き、その間に挿入される、1月22日付(02)にキャプションを引いた29~31頁の写真も29頁下のみ、本文でも「そんな自然とともに」云々と受けている前節【6】青山墓地」でかくれんぼ 関連で、他の5枚は全てこの節に関連している。そして軍関係の施設の最後に、32頁7~8行め、

‥‥。それに、/虎の門には海軍将校の社交クラブ「水交社」もあった。

と添えている。水交社は東京市芝區芝榮町(現、東京都港区芝公園4丁目1号)にあった。そして、9~12行め、

 そんな地の利もあってか、青山住宅街には陸海軍の将官クラスの家も多かった。
 なかでも「大東亜戦争」時の軍人として、いまもなお語り継がれている山本五十六連合艦隊/司令長官をはじめとして、敗戦時『一死大罪を謝す』(角田房子著)として自刃したことで知ら/れる阿南惟雅*1陸軍大臣や、‥‥

とあり、さらに3人めとして、15行め~33頁2行め、

‥‥のちに『河辺虎四郎回想録』を著した川辺虎【32】四郎陸軍中将などの家にも、小学校の区域内のクラスメートや私の家の近くにあり、子弟も学年/を前後して同じ小学校に在学していた。

が挙がるが、終戦時の陸軍大臣阿南惟幾(1887.2.21~1945.8.15)で、ここは四男の阿南惟正(1933.1.10~2019.3.3)と混ざっているようだ。惟正は田口氏の1学年下である。

一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾 (1980年)

一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾 (1980年)

  • 作者:角田 房子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1980/08
  • メディア:
一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾

一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾

  • 作者:角田 房子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1980/08
  • メディア: 単行本
一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾 (新潮文庫)

一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾 (新潮文庫)

  • 作者:角田 房子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1983/07
  • メディア: 文庫
一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾 (PHP文庫)

一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾 (PHP文庫)

一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾 (ちくま文庫)

一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾 (ちくま文庫)

 河辺虎四郎(1890.9.25~1960.6.25)は書名の通り「河」が正しく「川」ではない。 それはともかく、山本五十六の「子弟」だが、Wikipedia山本五十六」項に拠ると、「長男・義正が、府立一中を受験するに当たって、居宅を鎌倉材木座から青山南町に移している(後に一中父兄会の理事に就任した)。なお、青山南町の居宅は東京大空襲で焼失した。」とあって、同じく「山本義正」項を見るに、山本義正(1922.10.7~2014)は「東京府立一中(現・日比谷高)入学の為に、青山南町に一家で引越し、比較的合格率の高かった青南小学校に六年生の一年間通った。」とあって、昭和9年(1934)に神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現、鎌倉市)から青山南町に転居して昭和9年度の1年間、青南小学校に通学していた。
 昭和18年(1943)6月の山本五十六国葬の時点では、大正11年(1922)生の長男義正は旧制成蹊高等学校理科甲類在学、長女澄子は山脇高等女学校卒業直後、すなわち昭和18年3月卒業、5年制として昭和13年(1938)4月入学、大正14年度(1925~1926)生である。次女正子は山脇高等女学校在学中、そして次男忠夫が青南国民学校6年生で、田口(東野)氏や大村(西原)氏と同期生であった。
 田口氏の同級生西原(大村)煌子の回答に戻って【1】を最後まで抜いて置こう。単行本296頁15行め~297頁1行め、文庫版348頁14~16行め

‥‥春秋の例大/祭には、靖国神社まで、やはり歩いて、|参拝させられた。登下校時も、明治神宮の表参道を渡【296】るたびに、最敬礼しなければ|ならなかった。


 靖国神社は水交社の倍近くの距離がある。本書では靖国神社例大祭のことは見えない。第二章 昭和戦前「青山」の街・人・暮らし日記【20】下校途中の路上で戦死者に黙祷*2は「四月二十五日」条に拠って書かれているが、99頁10行め~100頁4行め、

 さらに四月二十五日には、

 今日は、りんじ大さい(靖国神社臨時大祭)です。けふ(きょう)学校からかへ(え)り/がけにサイレンが鳴りましたので、もくとう(黙祷)だと思って、目をつぶりました。こと【99】し、おまつりする神様は、一萬二千九九はしら(柱)もおまつりします。薄井先生にせんさ/(そ)うのお話を聞きました。

 日支事変などで戦って亡くなり、英霊となった人が、この年だけで一万二百九十九人もいた/ことに子どもながら驚き、学校の帰りにサイレンの合図を聞き、道に立ち止まって目をつぶり/黙祷を捧げている。

とあって、臨時だからか、参列はしていない。なお日記原文「一萬二九九」が「一万二九十九」となっているのが妙である。なお「薄井先生」は2月12日付(12)に見たように小学3年生のときの担任である。
 明治神宮については第四章 新しい時代が開く前に【30】善光寺さんの夜店帰りは山陽堂が定番コースに、265頁13~14行め、

 小学一年生の遠足は明治神宮だった、そのほかにも、何かにつけて明治神宮参拝の行事があ/り、先生を先頭に二列に並んで手をつなぎ、表参道を明治神宮までよく歩いた。

とある。大村氏が「最敬礼」を苦々しそうに回想するのは、青山北町6丁目(現、北青山3丁目の善光寺より南)の、表参道の南西側のブロックに住んでいて、同じ方角のもっと遠くからでも良いのだけれども、日頃表参道を渡るたびに「しなければなかった」ので、このように特筆しているのであろうか。田口氏が「最敬礼」の記憶を述べていないのは、小学校の近くに住んでいて電車通り(青山通り)や表参道に出掛けることが多くなかったからであろう。それから第三章 国ごと破滅までのエネルギー【30】賑わう東郷神社境内に感無量の節の冒頭、203頁5~6行め、

 原宿駅から竹下通りを明治通りに出て左に曲がると海軍館で、その並びに東郷神社があった。/当時は明治神宮同様学校から参拝に行った。‥‥

とあって、東郷神社にもよく出掛けているらしい。昭和15年(1940)5月27日、海軍記念日に御鎮座祭が行われているが、日記に記述はないのであろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「あなみこれまさ」。

*2:ルビ「もくとう」。