・『現代民話考』の青南国民学校(3)
昨日の続き。
続く「ビルマのバーモ首相」は日本占領下で独立し昭和18年(1943)8月1日から昭和20年(1945)3月27日まで存在していたビルマ国内閣総理大臣バー・モウ(1893.2.8~1977.5.29)で、昭和18年(1943)11月5~6日に東京で開催された大東亜会議に参加するために来日している。
「国名不明・ワラワン殿下」は、タイ王国のモムチャオ=ワンワイタヤーコーン・ワラワン親王(1891.8.25~1976.9.5)は昭和16年(1941年)3月に泰佛印紛争調停のタイ・佛印東京会談にタイ国首席全権として出席しており、昭和18年の大東亜会議にも参加している。――さすがに「国名不明」は酷いので編集サイドが補っても良かったのではないか、と思うのだけれども、しかしこうなっているから記憶に頼って書いていることがよく分かるのだけれども。
この辺り、大東亜会議参加者の来日については、第二章 昭和戦前「青山」の街・人・暮らし【43】さまざまな文化に触れながらの節の冒頭、130頁2~4行めに、
それにしても昭和戦前の国情を反映するように、幼い私は、六月だけでもモンゴル相撲とナチス・ドイツの挨拶やラストエンペラーまで見ていたし、多分その年タイの「ワラワン殿下」/やインドの「チャンドラボース」氏も来日しているし、‥‥
「その年」は昭和15年(1940)だろうが「ワラワン殿下」の来日は昭和16年(1941)と昭和18年の2度のようだ。スバス・チャンドラ・ボース(1897.1.23~1945.8.18)が寄寓先のドイツから潜水艦を乗り継いで来日したのは昭和18年5月16日、10月21日に昭南(シンガポール)で樹立された自由インド仮政府の国家主席兼首相に就任、そして11月の大東亜会議にオブザーバーとして参加するために来日している。モンゴル相撲を見たのは昭和15年(1940)6月5~9日に明治神宮外苑で「東京大会」が開催された「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会」で、【40】初めて観たモンゴル相撲はおかしな踊りに「六月六日」条を抜いて述べており、そして日記には記述がないようだが【41】ナチス・ドイツの一行の相撲観戦に、「東亜大会」の会場に、126頁3行め「あらわれ、意気揚々とあの右手を掲げる挨拶で、会場の人々の拍手に応えた」一行の記憶を述べている。
田口氏の同級生西原(大村)煌子の回答に戻って、単行本296頁15行め、文庫版348頁13~14行め
‥‥。山本五十六戦死の時、子息が在校のため、|水交社までぞろぞろと参列した。‥‥
とあるのは、もちろん本書にも触れてあって、175頁上に「帥元六十五本山 噫」と題する「日二十二月五年八十和昭」付の「朝日新聞」1面を掲載し、その本文、第三章 国ごと破滅までのエネルギー【14】連合艦隊司令長官戦死のショックの節に、174頁14行め~176頁4行め、
このことは、その頃は六年生になっていたが、まだ日本は勝っていると信じていた子どもに【174】は大ショックで、みんな「何故? どうして?」という茫然とした思いだった。
先にも触れたが、私たちの小学校には、学年を前後して長官の子弟が通っていたから、その/思いは強かったと同時に、連合艦隊司令長官が戦死するのはやはり……。という戦争の行方に/対する大きな不安も交錯した。
とあるが水交社に参列したことには触れていない。山本五十六(1884.4.4~1943.4.18)の国葬は昭和18年6月5日で、芝の水交社を出発している。(以下続稿)