・森川氏の進学先(2)行軍・私立の商業学校
進学先についての纏まった記述は昨日挙げた開墾作業と教練くらいで、後は断片的な記述を拾って行くよりない。
やや纏まった記述としては、『昭和下町人情風景』Ⅲ 人 情【6】「カッコウ」に、151頁15行め~152頁7行め、
大泉に初めて足を踏み入れたのは、戦時中の中学生時代に、ここから平林寺まで行軍し/たときであった。【151】
駅を出たら、鈴の音がして箱馬車がやってきたのには仰天した。*1
ガソリン不足の戦時中だったから、バスに代わって登場したのかもしれないが、下町育/ちには東京に乗合馬車が走っていようとは想像もできなかった。
行軍の途中、道路を遮って草を食む牛や、小川でおばさんが練馬大根を洗っている情景/は、とても同じ東京都は思えなかった。*2
家に帰って家族に話したら、へえ、そんなところがあるのと一同で感心していたが、ま/さか後年、そこに住むことになろうとは思ってもみなかった。
とあり、その3年後の執筆である『昭和下町人情風景』Ⅳ 風 景【4】「下水道」にも、195頁13行め~196頁9行め、
「大泉」という地名に接したのは、深川時代の銭湯のポスターだった。新開地の宅地の売/出し広告で、地平線の見える広々とした感じの絵だったのをかすかに覚えている。【195】
そのことを、大泉の建売住宅の申し込みのときに忽然と思い出した。*3
大泉に足を踏み入れたのは、やはり深川時代のことで、行軍と称する中学の軍事教練で、/大泉の駅で降りて、埼玉県の平林寺(現新座市)まで歩いて行った。
閑散とした田舎の駅で、駅前から泥の道であったが、駅前で隊列を整えているとき、鈴/の音を鳴り響かせて、一頭立ての箱馬車がやってきた。
戦争中の燃料不足のため、バスに代わって登場したのかもしれないが、東京都内に箱馬/車とは驚きだった。しかし周辺のたたずまいと違和感がないのは、それほど大泉の駅が田/園の中にあるということだった。
そのときは、まさか自分がそこに住むなどとは、夢想もしなかった。
と、ほぼ同じ記述がある。
中学生時代の級友については、『昭和下町人情風景』Ⅲ 人 情【16】「読み違い」に、182頁12~14行め、
入学したその私立の中学には同じ小学校から行った者は一人もなく、同級生は見知らぬ/者ばかりだった。肩から掛ける白い布地のカバンは皆新しかったが、これを教室の中では/自分の机の端に掛けることにしていた。
と、その「カバンの純白のベルト部分」に「WANABETA」と「墨黒々としたきれいな書体で」書いていた渡辺君のことが回想されているが、これによって森川氏が入学した私立中学校に入学したことが分かる。
それから『昭和下町人情風景』Ⅲ 人 情【3】「無 題」に、昭和61年(1981)の正月休みに、ニニ・ロッソ(1926.9.19~1994.10.5)のトランペットで軍歌を141頁11行め「 聞いているうちに、戦中のこと、軍事教練、級友のことなどが次々に思い浮かんだが、/‥‥」として、142頁1~3行め、
そして、遮二無二*4、国民を戦争に駆り立てていったわけであるが、級友のK君も、先輩/が予科練の制服で学校に勧誘に来たこと、後楽園球場に中学生を集めて行なった軍部の航/空ショーに純真な血を刺激されたことで、予科練を志願し、やがて戦死してしまった。
とあるのも、文脈からしても中学の級友だろう。
森川氏が聞いたのはニニ・ロッソ『哀愁の軍歌集』と云うレコードであろう。今は次のCDに収録されている。
- アーティスト:ニニ・ロッソ
- 発売日: 2008/07/01
- メディア: CD
『昭和下町人情風景』Ⅲ 人 情【4】「宿直手当」には、中学卒業時のことが回想されている。冒頭、144頁2~6行め、
私が商業学校の五年生だった昭和十八年は、戦況が日増しに不利となっている時だった。
父が、どうせ落ち着いて勉強できないのだから、いったん就職し、戦争が終わってから/進学したほうが良いというので、一応進学予定でいた私も父の勧めに従うことにした。
就職については、あちこちの軍需工場から"引く手あまた"であったが、商業学校卒の初/任給は四十円であった。
ここで、初めて商業学校であったことが分かった。しかし、東京東部にあった、私立の商業学校と云うまでで、それ以上の情報は得られない。幾つか候補になりそうな学校の見当を付けて見たが、目下資料を漁る余裕がないので、今はここまでにして置く。(以下続稿)