瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(27)

・森川氏の進学先(1)開墾・教練
 本書は深川で過ごした小学生時代の回想が中心で、進学先が何処の、どういう学校だったのか、はっきり説明されていない。
 中学生時代のことは、幾つかの印象的な出来事が特に詳しく書かれているばかりで、全体像は一向に見えて来ない。
 まづ『昭和下町人情風景』Ⅱ 下 町【7】「矢切りの渡し」に、77頁8行め~78頁5行め、

 私が柴又を初めて訪れたのは、小学校三年生の遠足で帝釈様へ云った昭和十年だった。*1
 おぼろげな記憶では、帝釈様の周囲は田圃か畠だった。境内の木陰で弁当を食べている/時に大きな蛇が出てきて、大騒ぎしたのを覚えている。*2
 それから五、六年すると毎月のように柴又へ通うこととなったが、帝釈様へお参りに行/ったわけではなく、京成電車柴又駅からわき目も振らずに、江戸川の土手を目指したの/である。
 当時、矢切の対岸の広々とした河床(柴又側)は一面の芦原だった。この一面の芦原の/開墾を、東京の東部にある中学校と女学校が割り当てられたのだ。*3
 地上の芦を刈って焼き払い、地下深く縦横に走る根を掘り取って一掃するのは、中学生/【77】の仕事だった。
 何度か通って一応芦を刈り終わると、学校ごとに畠が割り当てられ、引き続いて播種、/除草、収穫のために通うこととなった。*4
 肥沃な河床の土地だったので、芦の根絶には手を焼いたが、小麦、馬鈴薯など作物の出/来は良かった。*5


 「帝釈様の周囲」は、当時の地形図を見るに畑であったようだ。なお「河床」は水が流れているところの底だから「河川敷」とすべきだろう。小学3年生の遠足については、本書【2】「遠 足」にも、19頁7行めに「 春だったか秋だったかはっきりしないが、三年生のときには柴又の帝釈様へ行った。」と1行だけ触れてあった。
 この辺りのことは「投稿 風便り」op.2「クビキリギズ」にも以下のように述べてある。

 突然ですが、皆さん「寅さん」の映画を見たことあるでしょう。寅さんが江戸川の土手や原っぱになっている河川敷をおなじみの鞄を提げて歩くシーンを思い浮かべてください。実はあの原っぱは私が中学三年までは見渡す限り葦原だったのです。そうです、お察しの通りあそこは私が、いえいえ私たち東京東部の男子中学生が汗と涙で切り開いたのです。人間がすっかり隠れてしまう丈の高い葦は、サボる時は都合がよかったのですが刈り取るのが一苦労でした。刈り取って隠れる場所がなくなってからはもっと大変でした。ご承知の方は解って下さるでしょうが、竹のように縦横に張った地下茎を掘り起こすのはかなりの重労働なのです。一応、葦を取り払ったところで、あらためて東京東部の中学校と女学校に開墾地が割り当てられたのです。かくして戦時食糧増産のため学年別交替で農作業に励んだ、いや励まされたのです。だから寅さんがあそこを通る度に農作業を思い出す事になるのです。河川敷だから土地が肥えている上に、日当たりも風通しもよいので、小麦や馬鈴薯が意外によく穫れました。土手の上で足踏みの脱穀機で小麦を脱穀したあと、両手で掬った小麦を空高く放り上げると、川風で塵が飛ばされて小麦が足元の莚の上に落ちるという原始的作業を繰り返して、やがてかますに小麦を詰めるのでした。土手の斜面に寝転んで空を見ながら一休みして聞く脱穀機の物憂い音や、川風を受けながら眺めた江戸川の景色を思い出しますが、柴又の駅から真直ぐ土手を越えて畠に行くだけで、帝釈天にお参りした記憶はないのです。


 時期が「中学三年生」すなわち昭和16年(1941)と特定されている。しかし「東京東部の中学生」と云う暈かし方は変わっていない。
 「投稿 風便り」op.30「寅さんは生きている」にも、これは1月16日付(16)に触れたように情報誌掲載の旧稿の再録だが、

 また、柴又は小学校三年生の遠足(昭和十年)で帝釈様へ行ったのが始まりで、中学の時には「寅さん」がよく歩いていた江戸川の土堤下の、当時は一面の葦原だった河川敷を開墾して畑作りに毎月のように通ったので、むかしからよく知っていた処である。
 
 当時の帝釈様の周辺は畑か野原であったように思うが、遠足の時は、境内で昼食の時に大きな蛇が出てきて大騒ぎになったし、中学の時には、周辺の農家でナスやキュウリを買って帰り母に喜ばれたりした、まあ云うならば東京の田舎であった。

と短く纏めた記述が見える。
 それから1月17日付(17)に触れた、『昭和下町人情風景』Ⅳ 風 景【8】「草いきれ」に、当時の中学校の教科であった教練について述べている。冒頭、207頁2行め~208頁1行めを抜いて置こう。

 中等学校(旧制)の五年間を通じて教練という科目が必ずあって、記憶では毎週四時間/くらいだった。
 教練というのは体育のほかの、軍事訓練のための教科で、そのために学校には配属将校/という現役の将校が、学校が雇っている予備役の教官以外に常駐していた(のちに他校と/兼務で来ない日もあった)が、校長が承認しても配属将校学日を横に振れば卒業できない/というほどの権勢であった。
 教練はこのほかに六月か七月ごろに五日から一週間ほど、習志野、下志津、富士の裾野/などの練兵場で兵舎に宿泊しての訓練があった。*6
 四年生の七月(昭和十七年)には富士の裾野へ行ったのだが、到着の翌朝からは弁当持/参で演習場だ。*7
 朝から雨の日は弊社内で学科ということもあるのだが、このときは毎日晴天であった。
 炎天下に銃を担いで長時間駆け足をさせられ、喘ぐ足元からは強烈な草いきれが上がっ/てくる。*8【207】
 叱咤する配属将校は馬に乗っているからよいが、生徒たちはたまらない。*9


 以下、3月26日付「飯盒池(6)」に触れた、薬莢拾いの話題になる。
 同様の記述は、やはり1月17日付(17)に触れた「投稿 風便り」op.31「裾野の小鳥」にもある。これも冒頭を抜いて置こう。

 私が中学生(旧制)の頃は教練という週二時間、その後強化されて週四時間前後の軍事訓練の必須課目があった。 そして二年生か三年生以降は毎年一回、学年別に初夏から夏にかけて一週間前後、富士の裾野か今は東京のベッドタウン化している千葉県の習志野、下志津の原野にある兵舎に宿泊して、雨天の時は教学または兵器の入念な手入れの時間もあったが、ほとんどは野外を駈けめぐる訓練に明け暮れた。
 
 中学(五年制)とはいえ学校には小型兵器が支給(貸与)されていて、高学年になると、軽機関銃、歩兵銃、擲弾筒の編成で、実弾こそ射撃場での特別訓練時以外は支給されなかったが、管理は厳重だったものの原野での散開訓練には軽機関銃と歩兵銃の空包は支給された。


 以下、薬莢のことや予備役の教官に触れ、そして何故か本書や『昭和下町人情風景』には触れていなかった、配属将校との非常に印象深い出来事を詳細に述べるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「たいしやく」。

*2:ルビ「たん ぼ ・はたけ」。

*3:ルビ「 かしよう/」。

*4:ルビ「 は しゆ/」。

*5:ルビ「 ひ よく/」。

*6:ルビ「すそ の /」。

*7:ルビ「すそ の /」。

*8:ルビ「あえ/」。

*9:ルビ「しつ た 」。