瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(241)

・森川直司『裏町の唄』の「赤マント」(2)
 昨日の続きで、『裏町の唄』43~45頁【9】「赤 マ ン ト」、これは『昭和下町人情風景』83~85頁、Ⅱ 下 町【9】「赤マント」に再録されておりますが、その本題の方を見て置きましょう。
 『裏町の唄』43頁2行め~44頁4行め、改行位置は「/」で示し、『昭和下町人情風景』83頁2行め~84頁1行めは改行位置を「|」で示し異同を註記しました。

 秋の終りか冬の始め*1ころだっただろうか、日の短かい*2季節だったと思うが、若い女の|生/血*3を吸う赤いマントを着た恐ろしい男が、風のように出没するという噂*4が深川一|帯に急速/に拡がった*5
 女の生血*6を千人分吸わなければ治らない病気の男で、せむしだという人もいた*7。そのう/ち、女|ばかりか子供も男も殺されたとか、赤マント*8のほかに黒マントというのも出たとか*9/だ|んだん話が大きくなっていった。
 とくに被害の多い猿江の方では*10夕方になると青年団が出て*11警戒しているというこ|とだっ/た。学校でも一時はこの話で持ちきり*12だった。
 日が暮れると子供たちも早目に帰宅し、おかみさんたちも一時は恐怖におののいてい/た。
 新聞に、そんなデマで騒いでいるところがあるという記事が載ったが、人が殺されたな/【43】|どという記事はなかったから、デマだったのだろうが、一時は大変な騒ぎだった。学校で/|も朝礼のときに校長先生が、赤マントのうわさはウソだとわざわざ言うくらいだった。
 何年かたってから、また赤マントのうわさが流れたが、このときはすぐに立ち消えにな/|【83】った。


 森川氏も4月15日付(235)に見た岩崎京子と同じく晩秋、すなわち2学期とするのは一致しています。岩崎氏は赤マント流言を昭和10年(1935)のこととしていますから、これも同じだとすれば、森川氏は小学3年生のときに赤マント流言を体験したことになります。そうすると昨日見た「おばけ」騒ぎは、それから「一、二年たった」昭和12年(1937)小学5年生の春か、寒くなる前の秋に、起こったことになります。
 そして「何年かたってから」すなわち昭和14年(1939)2月の、東京市をパニックに陥れた赤マント流言については、深川では大した盛り上がりもなかったのか、それとも入試・卒業の時期に当たっていたために余り意識に上らなかったためか「すぐに立ち消えになった」程度の記憶しか残らなかった、――と、解釈出来そうです。
 流言の内容ですが、『昭和下町人情風景』では「せむしだという人もいた」が削除されています。これは記憶違いだから削ったのではなく、昭和53年(1978)には問題にならなかったことを平成3年(1991)には意識せざるを得なくなったからでしょう。確かに平成3年には使用すべき言葉ではなくなっていたのだが、しかしこれを削ってしまうと戦前の実情を隠蔽することになりはしないでしょうか。
 この「せむし」すなわち佝僂(傴僂)男であったとする説は、2013年11月8日付(018)に引いた、初めての赤マント流言に関する新聞報道である「都新聞」昭和14年2月19日夕刊(20日付)記事に見えていますが、このときはまだ「赤マント」と云う服装が注意されておりません。「赤マント」の初出は、2013年11月12日付(022)に紹介した「やまと新聞」、2013年11月13日付(023)に紹介した「萬朝報」の、昭和14年2月21日付の記事であるようです。すなわち、初期には赤マントよりも、2013年11月9日付(019)に引いた「國民新聞昭和14年2月20日付の記事にあるように「佝僂男の吸血鬼」と云う、身体的特徴とその恐るべき行為の方が注目されていたのでした。
 「女の生血を千人分吸わなければ治らない病気」については、上掲の新聞記事の中にも婦女子の生血を吸うことが見えていましたが、1000人と云う人数については、2018年9月3日付(161)に引いた「經濟雜誌ダイヤモンド」昭和14年3月1日号の近藤操「赤マント事件の示唆」に諸説を挙げた中に見える「或ひは千人とか百人とかの若い女の生血を啜ることが、癩病治療に特效があると迷信した妙齢の女性の犯行だともいひ」と、癩病の女性と云うことになっていますが見えています。
 以下、長くなりますので今回はここまでにして、残りは次回に回します。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 朝、明るくなった頃に目が覚めてしまって、睡眠不足気味である。午前中は家人の自宅作業の手伝いをしながら、テレビ体操をして「じゅん散歩」をいつまで撮り溜めしてあるのだろうと思いながら見て、それから昨晩ネット予約を入れて置いた耳鼻科に行く。以前は翌日の予約など殆ど取れなかったのに、予約可能の時間帯が9割以上だったから、空いているのかと思ったのだがそうでもなかった。いや、花粉症の盛期に比べれば2/5くらいだとは思うのだけれども。だからしばらく待たされて、これなら出る前に電話で処方箋だけで結構ですと言って置けば良かった、と思ったのである。昨日までの状況と、今朝服薬せず体温は 36.1℃であった旨を紙に書いて示したのだが、医師が普通に喋るので私も結局喋ってしまった。マスクを外して下さいと言うので取ろうとすると慌てて止められて、ずらして鼻だけ出して下さい、と言われる。治りかけだけれどもまだ炎症があるとのことで、薬を出してもらう。2週間? 1ヶ月? と聞かれて、なるべく長くと答えるとこれまで通りの日数を出してもらえた。夕方、右の鼻腔が詰まって、左が詰まり気味で息苦しかったのが、今は左の鼻腔が詰まって、右が詰まり気味で、やはり息苦しい。そして、眠い。

*1:『昭和下町人情風景』は「秋の終わりか冬の始めの」。

*2:『昭和下町人情風景』は「短い」。

*3:『昭和下町人情風景』は「生き血」。

*4:『昭和下町人情風景』は「うわさ」。

*5:『昭和下町人情風景』は「広がった」。

*6:『昭和下町人情風景』は「生き血」。

*7:『昭和下町人情風景』は「男だということだった」。

*8:『昭和下町人情風景』は「赤いマント」。

*9:『昭和下町人情風景』はここに読点あり。

*10:『昭和下町人情風景』は「ほうでは、」。

*11:『昭和下町人情風景』はここに読点あり。

*12:『昭和下町人情風景』は「もちきり」。