瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(24)

・元加賀小学校と周辺の小学校(2)臨海小学校
 周辺の小学校については、『昭和下町人情風景』Ⅱ 下 町【21】「プール」に再録されている本書【42】「プ ー ル」にも記述がある。本書179頁2~11行め(改行位置「/」)=『昭和下町人情風景』118頁2~11行め(改行位置「|」、異同を註記)、

 深川の小学校では、門前仲町に近い臨海小学校にだけプールがあったが、そこで夏休み/|には有料の水泳教室が開かれていて、臨海の生徒以外にも教えていた。
 夏になると堀で水死する子が絶えないので、親たちは堀に近づかないように言っていた/|が、万一、堀に落ちても泳げるようにと、兄弟で臨海のプールに通わせられた。
 六尺ふんどしと手拭い、水泳帽を入れた紐*1のついた白い木綿袋を持って通った。
 水泳帽には級を示す赤線や黒線が入っていた(線がないのもある)から*2「あいつ十メー/|トルしか泳げねえのか」などといわれないために、行き帰りには別の帽子をかぶって行っ/|た。
 夏の午下り*3に、電車通りの商店のウィンドウを眺めたり、掘割の倉庫の立ち並ぶ静ま|り/かえった道を通ったりしながら、のんびりと歩いた。


 「江東区立臨海小学校」HP「臨海小学校沿革史」に拠ると、明治38年(1905)に現在地に同じ大横川に面した、深川区深川蛤町2丁目1,2番地(現、東京都江東区門前仲町1丁目1番6号)に開校している。沿革史には深川区内唯一のプールのある小学校であったことには触れていない。関東大震災についての記述もないが被災焼失しているはずで、昭和2年(1927)に鉄筋3階建の校舎が竣工しているからプールも同時に完成したのであろう。いや、この沿革史には「昭和29年(1954)」条に「戦災校舎改修」とあるけれども、肝腎の戦災についての記述がない。
 「電車通り」は市電の高橋線が通っていた清澄通りで、「倉庫の立ち並ぶ」掘割は、仙台堀川や平久川、或いは貯木場が新木場に移転する前の木場を回ったりすることもあったであろうか。
 続いて1月19日付(19)に取り上げた「国民歌謡」に関する記述*4があって、本書180頁6~13行め、

 臨海小学校は、元加賀より校庭が狭かったが、プールが校庭の一隅にあったので、一層*5/狭く見えた。
 泳いでいて寒くなると、校庭の熱くなっているアスファルトに寝そべったが、校庭の片/|隅の金網の中にインコがいて、そのそばにゴムの木があった。
 臨海のプールで、講習の終り*6にはプールの長さの二十五メートルは何とか泳げるよう|に/なった。
 帰りもぶらぶらと道草を食いながら歩いたが、いつか、辰巳松竹の裏まで来たら、けた/たましい猫の鳴き声が聞こえてきた。

と、校内の具体的な記述がある。ここは『昭和下町人情風景』119頁4~9行めに当たるが、『昭和下町人情風景』には「帰りも」の段落以下がしばらく存しない。すなわち本書180頁12行め~182頁1行めまでの、溺れた仔猫を助けるのを手伝った話が省略されているのである。――「辰巳松竹」は文学散歩を中心としたサイト「東京紅團」の」「永井荷風の「深川の散歩」(第二回)」(初版2001年4月7日・二版2016年8月27日)に拠れば、現在の江東区門前仲町1丁目13番、「電車通り」の西側に昭和40年代まであったようだ。すなわち仔猫が溺れかかっていたのは富岡橋と黒亀橋の間の油堀川*7だと見当が付けられる。
 そして本書は1行分空けて182頁2行め、

 臨海のプールへ行かないときは、たまに浜町のプールへ行った。

と話題を転換する。この行は『昭和下町人情風景』では119頁10行め、9行めとの間には空白を設けていない。残りは表記の異同とルビ追加があるのみで同文である。(以下続稿)

*1:『昭和下町人情風景』にはルビ「ひも」。

*2:『昭和下町人情風景』はここに半角の読点。

*3:『昭和下町人情風景』は「昼下がり」。

*4:本書と『昭和下町人情風景』で異同は表記のみ。

*5:『昭和下町人情風景』は「いっ|そう」

*6:『昭和下町人情風景』は「終わり」

*7:油堀川は江東区木場3丁目19番から佐賀1丁目1番と2丁目1番の間までの首都高速9号深川線の下にあった。富岡橋は清澄通りに、黒亀橋は現在の葛西橋通りに架かっていた。