瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学時代のノート(03)

 2016年6月1日付(01)に、要らぬことをつらつらと述べた最後に、中学時代のノートを公開すると予告したのだけれども、その後、色々予定が狂って何もしないまま、はてなブログに移行して、今のこのコロナ禍である。文部科学大臣は大丈夫なのか、と云うくらい、何の対策もせずに、例のガタガタの入試も予定通りやる、運動会も文化祭もやれ、大学も対面授業を始めろ、と言い出した。極暑の頃に久し振りに出て来たから何か気の利いたことを言うのかしらんと思ったら、熱中症の恐れがあるからマスクを外しても良い、と、ぬかした。そうじゃなくて、こんな時期に登校させるのがそもそもおかしい上に、今年はマスクをせざるを得ないのだから、危険だと思われる日は学校が休校を判断しても構わない、と言うべきだろうに。とにかく官僚は予定通りやりたがり、その言いなりなのである。その癖、靖国神社には出掛けてしまう。優先順位が可笑しいだろう。――何だか知らぬが感染拡大が日本ではそこそこに収まっているのを良いことに、国際標準の対策に無知な国民、馬鹿な学生を騙しているとしか思えない。9月から朝の通勤電車が混んでいよいよ恐怖を覚えるようになった。なのに窓は開いていない。途中の、乗客がほぼ入れ替わる駅で長椅子から人がいなくなったので開けようとしたが、開かない。全身の体重を掛けたら15cmも開いてしまった。家人の会社でも、オフィスでマスクを外しているような上司から、出勤するよう圧力が掛かり始めた。その一方で5000億円掛けて会議システムを開発するとか云っている。全く訳が分からない。
 もう扇風機が天井からぶら下がっている電車は見掛けなくなった。私の子供の頃は冷房なんかなかったから、扇風機が回って、首振りでくるくる回っていた。そして窓が開いていた。私は子供の頃から汗かきで、風に当たって乾かしていたのである。電車の窓から入る風に暫く当たっているうちに、気持ち良く乾いて行く。かつての世田谷線は、進行方向の窓が開いたから、本当によく風が入って、頗る気持ちが良かった。ところが今の電車は違う。汗を掻いて電車に乗り込むと、冷える。いや、最近の暑さは尋常でないから、初めのうちはそれでも良い。しかし、汗が乾かずにしんしんと冷えるのが辛いのである。冷え切る。だから私は何時しか、半袖を着なくなり、腹巻と股引を常時着用するようになった。うっかりすると冷え切って堪え難くなる。だから、最近窓を開けるようになって、風に*1当たれるようになったことが本当に有難い。冷房がなくても、風に当たることで十分涼しい。私は都内の図書館に4月来、何度か自転車で出掛けている。帽子にタオル、マスクで最高気温が35℃近くなった日にも出掛けたが、別にバテたり熱中症になったりしない。自転車を漕いでいる間、風に当たっていると、それほど辛くないのである。いっそ、電車にも窓を開放した(網戸か鉄格子でも構わない)車輌を付けて、私らのような人間に応対してもらいたい。それなりに需要はあろうかと思う。
 どうも、この題で書き始めると余談で長くなってしまうようだ*2。本題に入ろう。
 冒頭に言及した、2016年6月1日付(01)の最後の段落は以下の通り。

 そこで、追々過去に私が調査したり記憶を書き留めたりしたノート類を当ブログにまとめて置こうと思うのですが、まづ昭和59年(1984)4月から昭和62年(1987)3月、横浜市立某中学校の生徒だった頃に書いたもののうち、恐らく中学2年生の夏に書いたノートを公開しましょう。(以下続稿)


 このノートの文字起こしをして行こうと思う。ただ、ノートの題は今からすると大袈裟なので、今更余り表に出したくないのである。それから、それなりに人名が登場するのだが、それもやはり伏せて置く必要があろう。そこで、当ブログではそれら、検索に引っ掛かると不味い字句は■■で伏せて置くことにする。しかし、それでは原本の内容が部分的に、永久に分からなくなってしまう。それも困るので、別箇、原本の画像を修正なしに上げて置こうと思うのである。
 ノートの内容は、私が昭和55年(1980)4月から昭和58年(1983)3月までの3年間、兵庫県明石市の新興住宅地にある小学校の3年生から5年生までの間に聞いた怪談を、恐らく昭和60年(1985)の夏に書き留めたものである。原本の画像は有料サービスに投稿して研究目的に利用する人が見るようにしようかと思っているのだが如何だろうか。仮に「昭和56年頃の怪談ノート」と題して置く。原題が知りたい方は追って公開する予定の画像の方を御覧下さい。(以下続稿)

*1:【2021年11月11日追記】「を」となっていたのを「に」に修正。

*2:10月1日追記】やはり若書きをそのまま公開することに躊躇があるので、何のかのと後回しにしようとしてしまうのである。