瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(275)

五木寛之の赤マント(3)
 昨日の続きで、2節め「アジアに対してどう責任をとるか」の最初の発言を見て置こう。135頁2~13行め、

五木 おそらく生粋の東京の人たちも、それから地方人というか、われわれにしても、ピョンヤンの人に/しても、北海道の人にしても、そんなに体系的な無意識でなくとも、二、三代前へ遡っての記憶というも/のがあると思うんです。われわれの場合は、たとえばなぜ両親が外地へ出てきたかという物語であったり、/内地という「地」についての、断片的なイメージであったり、それからやはり植民地ですね。万歳事件とか/というと、何かそれだけで非常に怖い話としてある。昔、“赤マント青マント”という話があって、ご存知/ないですか(笑)。要するに、“赤マント青マント”という不思議な怖いものがいて、それがあちこちに現わ/れる話があって、ぼくら、小学校の頃なんか、非常に怯えていたもんですけども、そういう話と同じよう/に、万歳事件とか光州騒動とかが、ずっと大人になるまで深い記憶のなかになった。そういうものが、新/聞をみて、あっ光州だと思った時、突然出てきたんですね。昔、中学校の学生が喧嘩したきっかけで、半/島全土が騒乱になった。口火が光州だったというけれども、それは何だったけなあと思って、資料をパラ/パラとめくってみると、非常にいまと似てるわけですね。その時は日本人対韓国人であったわけだけれど/も、今度は……。


 これは、前回引いた、1節めの2つめの発言に、赤マントを混ぜて、改めて述べたものとなっている。そしてこの節の3つめの発言(136頁7行め~137頁16行め)にて、同じ1節め2つめの発言の、冒頭部分を敷衍している。この発言は一部、省略して引用しよう。136頁8行め~137頁10行め、

‥‥。うちの親父は、最初ノルサンというところにいたんですけどね。やがてもっと寒村の、/日本人は駐在所の巡査とうちの親父だけという村に行き、その村の名前が思い出せないもんですから、そ/れを探しにいってみようと思っているんですけれども、そこからソウルへ出ていくまで、つまり北上して/いく過程ですね。その過程がある意味では、ぼくの父親の上昇の過程だったわけ。全羅道から近畿道への。/昔は検定試験がありまして、専検とか文検とかいう、専門学校の教師になる検定試験なんですけども、う/ちの親父は小倉師範学校という学校出ただけだったもんですから、小学校の教師の資格しかない。そのな/かで、毎晩寝ずに一日一、二時間の睡眠でひとつずつ検定試験を合格していくことによって、全羅道から/近畿道へのぼっていくわけですね。それで、まあまあいいところへ行ったところが、梶山季之さんが在校/していたソウルの南大門小学校。このへんは小学校のいわゆる名門です。
 植 民 地 にきている 日 本 人というのは、ぼくは前に言ったことがありますけれども、ある意味では、/【136】支配者であると同時に内地からはじき出された被差別のグループでもあるわけですね。これは非常にトリ/ビアルなことになるんですけれども、九州、福岡には学閥があって、福岡師範というのが圧倒的に力をも/っている。福岡師範でなければ校長になれないと言われるくらいに強い力をもって福岡県下の教育界を牛/耳っていたために、後発の小倉師範の出身者は財界に変わっていくか、外地で立つしかないと。すでに福/岡のなかでの教育界の野党という形で、外地にはじき出されているわけですね。そのなかで、全羅道の小/学校の教師から何とかして近畿道の方へのぼっていく。で、近畿道から今度は平安南道師範学校の教師/になる。だから、そういう個人的な上昇と、韓国の歴史的な、百済から高句麗へという、ひとつの軸があ/りますね。そういうものとがいみじくも重なっている。そのあげく一番最後が平安南道で敗戦になって、/それで自分の拠って立つべきアイデンティティが全部引っくり返ってしまう。アル中になって、自殺同様/に競輪場で血をはいて、やがて死んじゃうんですけれどもね。‥‥


 136頁17行めの「植民地」と「日本人」の組み方は原文のまま。そして、137頁14~15行め「‥‥、/母親は終戦後ひと月めで向こうで亡くなって、火葬することができなかったから、遺髪だけ持ってきたん/ですが、‥‥」と母親の死にも触れている。
 ノルサンというのは(探し方が悪いのだろうけれども)地図検索してもヒットしない。
 近畿道という行政区画はないので、これは京城のある京畿道の誤り。平安南道師範学校は平壤師範學校であろう。(以下続稿)