瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(278)

五木寛之の赤マント(6)
 昨日の続き。
 五木寛之『わが人生の歌がたり』第一部『昭和の哀歓』の第一章「はじめて聴いた歌」の3節め、24頁3行め~27頁5行め「青空に舞うブランコとチマチョゴリ」は、次のような村の記憶を述べた節である。24頁4~12行め、

 四歳か五歳ごろは、全羅道の、ほんとにさびしい村に暮していました。父は普通学/校といって、朝鮮人の子どもたちだけの学校の校長として勤務したのです。村では駐/在の巡査の家族と、私たちだけが日本人でした。
 遊ぶ友だちといっても、周りに日本人の子どもがいないのですから、朝鮮の子ども/たちと遊ぶことになります。
 最初は何となく距離を置いて、ちらちらとにらみ合いしていますが、そのうちに自/然に友だちになってしまうのです。私が持っている漫画本や絵本を見たくって、彼ら/が私のほうに接近してくる。私もそれをダシにして地元の子どもたちと仲良くなり、/一緒に魚釣りに行ったり、村のお祭りを遠くからのぞいたりしたものです。【24】


 この村のことは、10月10日付(275)に抜いた『七人の作家たち』のインタビューでは、ノルサン(論山)の次に住んだところのように述べてあるのだけれども、本書では、4節め、27頁6行め~30頁1行め「 歳時記と『佐渡情話』」の冒頭、27頁7~8行めに、

 福岡にいたときは小学校の下っ端の教員だった父ですが、さっき説明しましたよう/に、朝鮮半島に渡っていきなり、地方の小さな村の普通学校の校長になりました。*1

とあって、朝鮮に渡って最初に赴任した場所のように述べてある。
 そうすると、6節め、34~36頁7行め「 ヌクテが鳴く寒村から大都市ソウルへ」の「寒村」も、同じ村のように思われるのである。34頁2~7行め、

 私たちがかつて住んでいた寒村の名前を、どうしても思い出せないんですが、論山/という町からすこし離れた土地だったとうろ覚えに記憶しています。冬は零下二十度/とか二十五度とかに下がる。夜にはふとんの襟が霜で凍る寒さでした。*2
 母は心細い暮らしのなかでとても寂しそうで、もっと大きな街へ行けないでしょう/かと、いつも父に言っていました。近所には日本人もいないし、井戸端会議をする仲/間もいない、そういう環境でした。


 この村では、夜中にヌクテと云う「野生化した山犬のようなもの」の遠吠えが聞こえ、35頁1~5行め、

‥‥。母は、こんなヌクテの鳴くような村は、私はつらい、/早く何とかここを離れましょうと、いつも言っていました。
 個人的なことだけではなく、かつて朝鮮半島では万歳事件とか、いろいろな抗日独/立運動を日本の警察や軍隊が激しく弾圧する出来事もあって、そんななかで生きてい/るのは、不安でつらいという気持ちもあったのではないかと思います。‥‥*3

と、『七人の作家たち』とは違って、母の立場になって万歳事件に言及している。
 そして「専検とか文検とか」については、記憶を織り交ぜて『七人の作家たち』よりも詳しくなっている。35頁10行め~36頁7行め

 そのころのことで思い出す父母の光景があります。私が夜中に手洗いに起きて、玄/関脇*4の部屋を通り掛かりますと、必ずそこの三畳間で父がどてらの上にさらに毛布を/かぶり、ランプをつけて、一生懸命本を読んでノートにメモしていたんです。お父さ/ん何してるんだろうな、なんでこんな夜中に毎日毎日仕事しているんだろうと思いま/した。母も起きていて、お茶を出したりしています。
 当時は結局、地方の師範学校を出たぐらいでは、教育界の出世の階段をそれほど上/【35】がることはできないわけです。ですから一生懸命勉強して、専検とか、文検といわれ/る文部省教員検定試験をパスして、一歩でも二歩でもいいポストにつこうという努力/だったようでした。
 そしてあるとき、祝電がたくさん届きます。父がいくつかの検定試験に合格したら/しい。まもなく母の願いどおりに、私たち家族は当時京城と呼ばれていたソウルへ移/ります。朝鮮総督府のあった大都市です。私たちは官舎に住み、新しい生活を始める/ことになりました。*5


 私の興味の中心は、五木氏が「赤マント青マント」に何処で接したのか、と云うことなので、正直、小学校に上がるまでのことは余談なのだけれども、ついでに見て置いた次第である。(以下続稿)

*1:ルビ「した・ぱ」。

*2:ルビ「ロンサン/れいか/えり」。

*3:ルビ「マンセイ・こうにち//」。

*4:ルビ「わき」。

*5:ルビ「/けいじよう/そうとくふ/」。