瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(276)

五木寛之の赤マント(4)
 昨日の続きで『七人の作家たち』171~205頁、岡庭昇・高橋敏夫「編者解説」から、五木氏の経歴を述べたところを見て置こう。2段組で1段18行、1行23字。205頁4行めまで。対談形式になっているが、やはりどちらの発言かは分からない。下段4行めに(一九八三・三・一五)とある。
 171頁はまず2行取りで上寄せで明朝体「編者解説」下寄せゴシック体で「岡庭昇・高橋敏夫」。4行分空けて本文。174頁下段6行めまでが概論、1行分空けて7行めからが各論。まづ、174頁下段7行め~179頁上段16行め「井上ひさし」、1行分空けて179頁上段17行め~185頁下段5行め「五木寛之」、1行分空けて185頁下段6行め~189頁下段8行め「大岡昇平」、1行分空けて189頁下段9行め~194頁下段18行め「野間宏」、195頁上段1行め~197頁下段13行め「柴田翔」、1行分空けて197頁下段14行め~201頁上段6行め「大西巨人」、1行分空けて201頁上段7行め~205頁下段3行め「埴谷雄高」。
 179頁下段1~16行め、

五木寛之さんの経歴を簡単に言います。生まれは昭/和七年、福岡県。それから、これが五木さんにとって/非常に大きな問題として変奏されるわけですけれど、/生まれて間もなく、先生だった両親と朝鮮に渡って、/各地を転々としながら国民学校に入学している。そし/て昭和二〇年、平穣の第一中学に入学して、そこで敗/戦を迎えている。平穣の第二中学には、当時藤田敏八/がいたりしています。この時代は、藤田敏八のほかに、/生島治郎とか三木卓あたりも大陸へ行って帰ってくる/という体験をしています。もう少しさかのぼると、安/部公房、大藪春彦黒岩重吾などもそうです。まあそ/れぞれ場所は違いますけれども、日本から離れて、い/わゆるデラシネのごとく翻弄されていく。そして敗戦/の中で、彼は、戒厳令下の平穣から集団脱走し、帰国/してます。この間のことは、小説にも出てきますが、/その後福岡に戻って、昭和二七年に東京に出てくる。/‥‥


 これは少々正確ではない。五木氏が学齢に達した昭和14年(1939)4月は国民学校令施行の2年前である。五木氏は2年生までは小学校に通っていた。それから「平壌」を「平穣」と誤っている。
 しかし、五木氏の「赤マント青マント」は余り具体的ではない。出来れば岡庭・高橋両氏には「どんな話ですか?」と突っ込んで欲しかった(笑)。突っ込んでいないところからすると岡庭氏も(そして高橋氏も)「赤マント青マント」を知っていたのだろう。しかしボケて突っ込んで欲しかった。その上で「私が小学生時代に聞いたものとは少し違いますね」とか言って、異同を指摘して詳細を聞き出してくれていたらもっと有難かった(笑)けれども、まぁそんなことをしていたら何のインタビューだか分からなくなってしまう。
 さて、これ以外に「赤マント青マント」について述べたことがあるのか、五木氏の読者でない私は知らない。しかしながら、「小学生の頃」と云うのだから万歳事件や光州騒動と同様に、朝鮮での伝聞に違いない。
 そこで問題になるのは、五木氏が小学校時代をどこで過ごしたか、である。しかし、入学した小学校がどこか、どうもよく分からない。
 差当り、近所の図書館にあった次の、四六判上製本の3冊を借りて来た。
五木寛之『わが人生の歌がたり 昭和の哀歓平成十九年三月三十一日 初版発行・定価1500円・角川書店・255頁

わが人生の歌がたり―昭和の哀歓

わが人生の歌がたり―昭和の哀歓

五木寛之『わが人生の歌がたり 昭和の青春平成二十年三月三十一日 初版発行・定価1500円・角川書店・211頁
わが人生の歌がたり  昭和の青春 (角川文庫)

わが人生の歌がたり 昭和の青春 (角川文庫)

五木寛之『わが人生の歌がたり 昭和の追憶平成二十一年九月三十日 初版発行・定価1700円・角川書店・229頁
わが人生の歌がたり 昭和の追憶

わが人生の歌がたり 昭和の追憶

わが人生の歌がたり  昭和の追憶 (角川文庫)

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わが人生の歌がたり 第3巻

わが人生の歌がたり 第3巻

  • アーティスト:五木寛之
  • 発売日: 2010/01/20
  • メディア: CD
 文庫版及びCDは未見だが序でに貼付して置いた。(以下続稿)