瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(277)

五木寛之の赤マント(5)
 昨日の続きで、五木寛之『わが人生の歌がたり』3冊について、カバーや紹介文等についてメモして置こうかとも思ったのだが、そういったことは文庫版と比較する機会を得てから果たすことにして、差当り、初出について確認して置こう。
 各冊巻末、『昭和の哀歓』253~255頁『昭和の青春』209~211頁『昭和の追憶』227~229頁に「●五木寛之の歌がたりリスト」として、収録している章と歌名、歌手、作詞、作曲、レコード会社を列挙している。見出しの下に「*印は、ラジオ番組では放送されたが、本書には未収録です。」とあって、本文で歌名のみ挙がっていて歌詞の引用がない歌に符号を附している。なお、このリストには頁付がないが目次に頁を示してあるのでここまでを頁数に勘定した。
 その前の頁(頁付なし)の中央下部に明朝体縦組みでやや小さく、平成19年(2007)3月刊行の『昭和の哀歓』252頁(251頁は白紙)には、

本書は、『月刊ラジオ深夜便(発行 = NHKサービスセンター)の、二〇〇五年八月号より二〇〇七年一月まで掲/載された「わが人生の歌語り」を、編集、加筆したもの/です。本書は第一部であり、第二部、第三部と続篇が刊/行される予定です。

とある。文庫版では最後の一文はなくなっているであろう。平成20年(2008)3月刊行の『昭和の青春』208頁(207頁は白紙)には、

本書は、『月刊ラジオ深夜便(発行 = NHKサービスセンター)の、二〇〇七年二月号より二〇〇八年二月号まで/掲載された「わが人生の歌語り」を、編集、加筆したも/のです。本書は第二部で、続篇が刊行される予定です。

とある。そして平成21年(2009)9月刊行の『昭和の追憶』225頁(226頁は白紙)には、

本書は、『月刊ラジオ深夜便(発行 = NHKサービスセンター)の、二〇〇八年三月号より二〇〇九年七月号まで/掲載された「わが人生の歌語り」を、編集、加筆したも/のです。本書は第三部です。

とある。リストの註記にあった「ラジオ番組」がNHKの「ラジオ深夜便」であることが分かるが、放送期間などについては記載がない。
 五木氏の生まれた昭和7年(1932)から、10月9日付(274)に触れた「二度目の休筆宣言」まで、すなわち昭和55年(1980)までを歌謡曲とともに振り返ったもの。
 五木氏の少年時代が回想されているのは、もちろん、第一部の『昭和の哀歓』である。――10月9日付(274)及び10月10日付(275)に引いた『七人の作家たち』インタビューと重なる箇所を逐一、但し長くならないように注意しながら見て置こう。
 13頁(頁付なし)は扉で、中央に双郭(14.2×3.2cm)があって上寄りに明朝体で「第一章 はじめて聴いた歌」題は太字。14頁から本文で53頁まで。14頁冒頭、1字下げ3行取りで「 昭和七年の『影を慕いて』」と1節めの題。本文は1頁15行、1行38字。但し以下の節の見出しは、2節め、18頁1行め「 記憶の底で響く『アリラン』」と同じように、右に2行分空白、左に1行分空白になっている。
 冒頭、18頁2~4行め、

 私は生後まもなくで玄界灘を越えて、朝鮮半島に渡りました。学校教師だった父母/が新天地を求めて当時、日本が植民地として支配していた朝鮮半島の学校に赴任した/からです。*1


 そして、父の出身地が貧しい農村であったことを述べ、19頁7行め~20頁1行め、

‥‥。ですから、長男は家を/継ぎますが*2、次男以下はみな、家を出て行/かなければいけないのです。
 父は、少年時代にどうすれば農村から出/て世の中で生きていけるだろう、と一所懸/命に考えたに違いありません。軍人とか、/鉄道員とか、警察官とか、いろいろ道はあ/ったのですが、多少勉強ができたのかそれ/とも勉強が好きだったのか、小倉の師範学/【19】校に奨学生として進学しました。

と、国学の勉強と剣道部で活躍した師範学校時代について述べ、7~10行め、

‥‥。父は卒業後、国語と漢文の教師になり、出身地近くの村の小学校/に赴任します。そこで知り合った女性教師と、恋愛し、やがて結婚することになるわ/けです。その女教師が母でした。
 母は父とは対照的な女性で、福岡女師範学校の卒業生でした。‥‥

と、以下、母について述べている。なお19頁の1行当りの字数が少ないのは、上部に写真が2つ並べて掲載されているからで、下に添えてあるキャプションに「韓国・論山 母・カシエと。1歳半、4歳(左から)」とある。但し右の写真は1人で写っている。
 この節の最後(24頁2行め)近く、23頁12行め~24頁1行め、

 私が幼児期をすごした地方の町は、春はレンギョウの花がとてもきれいで、道路端/【23】が真っ黄色になるぐらい咲いていました。‥‥

とあるのが、母親と写真を撮った論山なのであろう。当時の忠清南道論山郡で、10月10日付(275)に引いた『七人の作家たち』では「ノルサン」となっていたが「ノンサン」と読むようだ。五木氏は「全羅道から‥‥のぼっていく」と述べていたが論山郡(現・論山市)は忠清南道の南東部で、南に全羅北道に接しているけれども全羅道ではない。ただ、かつての論山郡の中心地(であったと思われる)江景邑は全羅北道に隣接している。
 それはともかく、両親の学歴(及び人柄)について述べた箇所に続けて、21頁3~7行め、冒頭と同じことが理由も含めて再説されている。

 明治生まれの人には立身出世が一つのモラルでした。男として生まれて職についた/からには、そこで名を挙げることが当然だという時代だったのです。*3
 父は普通の師範学校の出ですから、福岡県で小学校の教師を転々としたところで、/将来はせいぜい教頭先生ぐらいで行き止まりだと思ったのかも知れません。いろいろ/考えた末に、当時の新天地だった朝鮮半島に渡ろうと決意するわけです。


 この辺りは10月10日付(275)に引いた『七人の作家たち』インタビューの方が詳細であった。しかし「ラジオ深夜便」に学閥を巡る話は馴染まないと考えて、一般論みたいな話にしたのであろう。(以下続稿)

*1:ルビ「げんかいなだ/ふ にん/」。

*2:ルビ「つ」。

*3:ルビ「/あ」。