瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(284)

五木寛之の赤マント(12)
 10月11日付(276)に引いた『七人の作家たち』の「編者解説」には「朝鮮に渡って、各地を転々としながら」とあったが、五木寛之『わが人生の歌がたり』第一部『昭和の哀歓』や、「記憶の曖昧さについて」(日刊ゲンダイ連載「流されゆく日々」)に拠ると、――論山の町にいたことがあったのかどうか、どうも良く分からないが、「全羅道」で間違いないとすれば忠清南道論山郡に近い全羅北道の寒村に長らくいて、そこから昭和14年(1939)に京城昭和16年(1941)頃に平壌に移動して、敗戦を迎えているので、そんなに地方廻りをしていた訳ではない。しかしながら五木寛之『人生の目的』に拠ると寒村から京城までの間に何度か移動したように書かれている。小学校も、平壌では船橋里小学校から山手小学校に転校したと云うのは諸書一致しているが、京城の小学校の記憶は曖昧なようだ。『人生の目的』では京城でも転校したように記憶すると述べるのだが、他の諸書では京城での転校に触れていない。入学したのは三坂小学校で良いようだ。
 どうも、余計な話で長くなってしまう癖があるが、ここで話を「赤マント青マント」に戻そう。五木氏は何時何処で、この怪異談に接したのか、と云うことだが、京城でこの話に接した1学年上の中村希明と同じく昭和14年(1939)の可能性が高いのではないか。五木氏は三坂小学校の1年生であった。内容は2014年1月7日付(77)に引いた、中村氏の回想と同様のものであったろう。中村氏は昭和15年(1940)には福岡県小倉市に移っているので、昭和14年(1939)に京城でこの怪異談がかなり広まったのはほぼ間違いないであろう。但し、昭和15年以降もこの怪異談がくすぶり続けた可能性を否定するものではない。名称は中村氏に合わせて「赤マント」として置いたが、朝鮮で流行したものを指す場合は「赤マント青マント」と呼ぶべきかも知れない。昭和14年(1939)2月に東京で流行った、赤マントを着た怪人物、ではなく、10月10日付(275)にあるように、もっと「不思議な怖いもの」なのである。
 この怪異談が五木氏の転校先である平壌でも行われていたらば面白いのだが、――出来れば「流されゆく日々」に、子供の頃(でなくても良いのだが)のお化けについての回想を纏めるよう働きかけてもらえないか、と無料会員が云うのは烏滸がましいが「日刊ゲンダイ」編集部にお願いしたいところなのである。いや、五木氏は昭和14年の赤マント流言(の変型)の、今や貴重とも云える現存する体験者なのである。インタビュー(『七人の作家たち』)での断片的な発言ではなく、もう少ししっかり、しかし記憶の捏造を促すかも知れぬので当ブログに集めたような資料には目を通さずに、書き残してもらえれば、と思うのである。その上で、当ブログの資料に目を通して、思い出せなかった細部が甦れば、さらに興味深い資料となるであろう。
 五木氏の朝鮮時代の回想を揃える作業は今後も気長に続けることにして、ここで一旦切り上げることとしよう。そこでその最後に、10月9日付(274)に引いた『七人の作家たち』のインタビュアーが、偶然(!)赤マント青マントを引き出すきっかけとなった週刊朝日連載「深夜草紙」について確認して置こうと思う。
五木寛之『深夜草紙 PART6』一九八一年六月二十日 第一刷・定価一、〇〇〇円・朝日新聞社・292頁・四六判上製本
 奥付の前の頁(頁付なし)の下部中央に小さく縦組みで「「週刊朝日」一九八〇年一月四日号―十二月二十六日号連載」とあって、昭和55年(1980)1年分の「週刊朝日」掲載分を纏めたものである。 昭和50年(1975)から1年1冊で6冊、288~292頁「退場の弁」で(2度目の)休筆宣言をしている。末尾、292頁8行めに、本文末とは離れて下寄せで「(一二・二六)」と初出を示す。
 通して読む余裕はないので1冊めと6冊めに何となく目を通した程度であるが、週刊誌連載の身辺雑記で読み易く、かつ当時の世相が分かって面白い。『七人の作家たち』のインタビュアーが持ち出したのは、129~140頁「五十年前の光州で」で、末尾(140頁10行め)に「(六・六―一三)と2週にわたっている。「一」は134頁まで、「二」は135~141頁。131頁(頁付なし)は村上豊(1936.6.14生)による韓国南部のイラスト地図。
 「一」の冒頭部を引いて置こう。129頁3行め~130頁6行め、

 五月二十二日付の読売新聞朝刊を読んでいて、意外な出来事があった。これまで三十年以上も/探し続けていた或る土地の地名が、突然、記事の中から現れてきたのである。
 その土地は、私が子供の頃、両親と共に何年かをすごした場所である。当時の日々の小さな記/憶は確かに残っているのに、その地名がどうしても思い浮かばないまま時がたってしまっていた/のだ。
 もともと物忘れのひどいほうだが、その事だけはずっと気になっていた。いわば私の失われた/時の舞台ともいうべき大切な土地だったはずなのに、どうしても記憶がよみがえってこず、夜中/【129】にふと目を覚しては、ああ、あれは何という土地だったのだろうと、輾転したことも何度となく/あった。こういうことは、妙に気になるものである。九州の親戚にでもたずねてみれば、案外あ/っさりとわかるにちがいないのだが、そんなふうにしては思い出したくない気持ちがなぜか心の/奥にあったのだ。
 それが、新聞の第一面の記事の中に突然、出てきた。私は一瞬、頭の奥を照明灯で照らし出さ/れたような気がした。意外なめぐり会いだったと、それから一日中、そのことばかり考えていた。


 そして新聞記事を引用して、132頁10行め~133頁4行め、

 光州のことを、私たちは、昔ヒカリ・コーシューと呼んでいた。黄州という別な地名と混同し/ないためである。その光州からは、羅州を経て、木浦の港へ小旅行した記憶が残っている。唾を/のみこみながら、記事の続きを読み進むうちに、突然、頭をガンとなぐられたような気がした。/それは、次の記事の中に或る地名が出てきたせいだった。
〈また、暗くなってからは、市民たちは建物の陰に隠れ、銃撃や流れ弾を避けている。このため/中心部の道路は一見したところ人影が見当たらない。しかし、市民たちは家に帰ろうとせず、横/丁や路地に潜んで闘志を燃やしている模様だ。一節には、全羅南道の道庁は同日午後、全羅北道/【132】の裡里(りり)市に移されたとも伝えられる〉
 裡里、という地名を目にしたとき、私は一瞬、おや、と思い、それから急に体が熱くなった。/(りり)とルビをふってあるその地名は、たしかに私が三十年近く記憶の深い淵の底を引っかき/まわしては探し続けてきた幻の土地の名前だったからだ。


 その夜、眠れぬまま室内にあった風媒社刊『光州抗日学生事件資料』を読んで、134頁9~10行め「‥‥、なんとなく新聞の第一面の大見出しと、たまたま机の横にあった一冊の本の内容とが、/〈光州事件〉という線で結ばれ、そこに思いがけない幻の地名が登場した‥‥」ことで、「二」では『光州抗日学生事件資料』をコラージュして「五十年前」の〈光州学生事件〉を浮かび上がらせようとするのである。

 ところが、『七人の作家たち』及びそれ以降の(私の見ている)回想には「裡里、という地名」は登場しない。代わりにノルサン/ノンサン(論山)と云う地名を挙げている。しかし、10月12日付(277)に注意したように、論山は忠清南道で「全羅道」ではない。裡里は現在の全羅北道益山市で、忠清南道論山市の南西に隣接している。――「全羅道」が正しければ裡里の方が「幻の土地の名前」に相応しいと思うのだが、これほどの衝撃を受けたことを書き連ねながら、五木氏は以後、裡里には触れないのである。勘違い、と云うことになるのだろうが、‥‥果たしてどうだろう。
 それから、『七人の作家たち』では10月9日付(274)に引いたように、光州学生事件を「民話伝承風に‥‥聞いている」ように書いていたが、「深夜草紙」ではどうも光州事件に触発されて知ったように書いている。週刊誌連載エッセイだからややこしくならぬよう、わざと忘れていたことにしたのかも知れないが、これも、実のところ、どうだったのだろう。『七人の作家たち』の編者、岡庭・高橋両氏には、この辺りの「深夜草紙」との齟齬も(私としては)突っ込んで置いて欲しかったなぁと思うのである。(以下続稿)