瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(274)

五木寛之の赤マント(2)
 昨日の続き。
 それではまづ、1節めから、五木氏の朝鮮半島滞在時について述べた部分を一部、抜いて置こう。「ききて」の発言は一回り小さく、五木氏の発言との間に1行分空白がある。岡庭昇と高橋敏夫のどちらの発言か区別されていないが、大岡昇平野間宏柴田翔に1人で応対している岡庭氏が、やはり主だったのだろう。
 132頁1行め「ききて」が「二度目の休筆宣言」について尋ね、2~12行め、五木氏が事情を説明している。そして「ききて」からの2つめの問、13~15行め、

―――この前、「週刊朝日」の「深夜草紙」で、去年、光州の反乱が起きた時、急にその言葉を思い出したというふうにお書きに/なっていた。もともと、韓国については、幼年期にいらしたこともあるわけだし、色々なエッセイで取り上げられているわけ/ですけれども、過去がフッと浮かびあがってきたという、その時の状態みたいなものを伺いたいのですが……。


 この問に「去年」云々とあるのは昭和55年(1980)5月18~27日の光州事件である。「二度目の休筆宣言」は昭和56年(1981)であった。前回「初出一覧」から初出誌の発行年月を確認したが、このインタビューはやはり昭和56年(1981)に行われたものなのである。出来れば、日付を示してもらいたいところであった。
 この問に対する答え、16行め~134頁。133頁(頁付なし)に五木氏の写真。

五木 親父が全羅道の学校の教師をしていたんです。それが、最初は普通学校というんですけれども、韓/【132】国人だけの、小学校があって、その普通学校の校長からスタートし、師範学校の教師になっていったわけ/ですけれども、韓国を問わず第三世界の場合には、いつもラディカルな動きのリーダーシップをとるのは/学生でしょう。よくハネアガリなんて言うけれども、結果的にはどこでもやっぱり学生がリーダーシップ/とっているんですよ。いまの日本だけじゃないかな、学生がこんなに安泰なのは。光州事件というのは、/とつぜん出てきたわけではない。ぼくの生まれる前から、北から南まで随分たくさんの事件があった。農/村の伝承というか、おばあさんなんかが『遠野物語』じゃないけれども、民話的に色々な話をしますね。そ/れを聞いて育った子供たちがいると同じように、ぼくら植民地に育った人間は、正確にではないけれども、/民話伝承風に植民地制圧の歴史を聞いている。かつて起こった事件をポツリポツリと、それは手伝いのお/ばさんであったり、あるいは子守りの韓国の娘さんであったり、あるいは父親であったり、色々な人から/ですが、耳にして育つわけですね。その中で万歳事件というのがあり、それからやっぱり光州騒動にくる。/むかし、光州の中学の学生と日本人の中学の学生が対立して喧嘩し合ったことから、半島全土がえらい大/騒乱になったんだという話を聞いたり、そういうふうにして一種の昔物語みたいな風にして、断片的に聞/いてるなかに光州という言葉がありました。黄州と光州があって、黄州の方はリンゴの名産地なんですね。/黄州リンゴっていって、韓国のなかでもうまいリンゴですけれども、光州の方の人間は気が荒いって、日/本人の大人たちからぼくら聞いていたんですよ。昔の光州で中学生が日本人の中学生と大騒乱になったと/いう話を聞いていたもんですから、光州でこういう事件が起きたと読んだ時に、やっぱり直ぐに思い浮か/んだのは、その子供の頃の、誰からともなしに聞き伝えてる話だったんですね。【134】


 「深夜草紙」は Part 1 ~ Part 6 まで6冊の本になっており、文庫版が Part 4 まで文春文庫から出ていた。五木氏が光州の記憶に触れた文章は Part 6 に収録されていると思われる。未見。

 黄州は韓国ではなく北朝鮮黄海北道である。日本統治時代は黄海道全羅道日韓併合前に分割されていて、光州に全羅南道の道庁があった。
 万歳事件は大正8年(1919)3月1日の三・一運動、光州騒動は昭和4年(1929)10月30日の喧嘩に始まって翌年に掛けて拡大した光州学生事件である。――直接関係のない引用で長くなったように思われるかも知れないが、この流れの中で赤マントに言及するのである。(以下続稿)