瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(11)

・プカルア滞在期間について(3)
 さて、畑中氏がプカルアで1964年を迎えたことは「Ⅵ 太陽はプカルアをめぐる」の30節め、164頁16行め~166頁15行め「去っていく一九六三年」から章末の34節め、170頁2行め~172頁1行め「正月の酔っぱらい」に描写されています。
 プカルアを離れる場面は「Ⅶ 住めば都のプカルア」の5節め、204頁9行め~205頁4行め「今啼いたからすがもう笑う」の前後に描写されていますが、204頁17行め~205頁2行め、

‥‥。わたしは、一人で怒ってみたり、喜んでみたり、悲しんだり泣きもしたプカルア/【204】での生活に別れを告げた。三度訪れるにはプカルアは余りにも遠かった。海はつながっていて/も日本から一万キロ以上ある距離が夢をもたせてくれない。

とあって、プカルア滞在は1962年の「二カ月足らずの予備調査」と、1963年8月13日にタヒチ島を発って、8月末か9月初めに到着してから1964年に掛けての、本書に扱われている長期滞在の2度であったことが分かります。
 が、では1964年のいつまでプカルアにいたかが、どうもよく分からないのです。手懸りとしては219~222頁「あとがき」、220頁4行めの「わたしがプカルアを離れて三年余りたってしまった。」との記述があります。この「あとがき」は222頁13行めに「一九六七年七月」とあります。そうするとプカルアを離れたのは1964年の前半、1963~1964年の長期滞在も1年足らず、1962年の予備調査も含めて畑中氏のプカルア滞在は合計して、せいぜい1年間程度であったように思われます。2020年11月30日付(01)に引いた、カバー表紙折返しの紹介文に「単身この島に棲み込むこと一年半。」とあるのは少々長く取り過ぎているようです。ただ、畑中氏がはっきり書いていませんので、滞在期間の判断が難しいのは確かなのです。
 昨日見た青柳まちこ「100号記念 特別寄稿/私のオセアニア学ことはじめ」のような回想がないかと思って、昨年の11月11日に次の本を借りて見たのです。

 しかし、この本は標題にある通りニューギニアについて述べたもので、南太平洋のことは取り上げられていませんでした(細かく見ればどこかに記述があったかも知れませんが)。
 それはともかく、青柳氏の「私のオセアニア学ことはじめ その2」の、前回冒頭を抜いた「2.タヒチ」の最後、2頁30行め~3頁6行めに、

 こうして1962年2月1日、午後6時20分私の乗ったエア・フランス機は滑走を始めた。/目指す先はタヒチのパピエテ、飛行機は一路南下する。赤道を越えたのは何時か分からな/かったが、時間からすれば9時半頃には南半球に入ったことになるのだろう。大昔ハワイ/人が中央ポリネシアから北に向かった大航海とは逆方向である。
ほとんど揺れることもなく、高度を下げてきた機体が滑走路にぶつかる音がして飛行機/は定刻通り11時50分、パピエテに到着した。空港はホノルルと比べると如何にも暗く、/【2】湿気を含んだ生暖かい、ほんのりと甘い空気があたりに立ち込めていた。
入国の手続きが終わって建物の外に出ると、暗い中、畑中さんが立っているのが見えた。/短く髪を切っているため少女のようである。傍に立っている白髪の日本人は、畑中さんが/お世話になっている清野さんであると紹介された。二人はそれぞれティアレ・タヒチの白/い花のレイを私の首に掛けて下さった。私は今晩から清野一家の居候の畑中さんのそのま/た居候という身分となる。

とあって、青柳氏はハワイから移動、昭和37年(1962)2月1日深夜にタヒチ島に着き、畑中氏と清野老人の出迎えを受けております。すなわち青柳氏がタヒチに来たのは、北氏がタヒチを去って1ヶ月余り経った頃と云うことになります。
 清野家のことは、続く3頁7行め~4頁9行め「3.清野さん」に詳しく述べてありますが、これは別に、北杜夫『南太平洋ひるね旅』と比較しながら取り上げることとしましょう。4頁10行め~5頁8行め「4.モーレア島への旅」も同様今回は割愛、ここでは5頁9行め~6頁16行め「5.ナイ家に宿泊」の最後から、6頁17行め~7頁26行め「6.ニューカレドニア」の冒頭、6頁13~23行めを抜いて置きましょう。

 タヒチでの2週間の滞在を終えて出発する時、清野さんと畑中さんは空港に送りに来て/下さった。タヒチ流に抱き合い、清野さんの幾分伸びた髭に頬擦りすると、私は涙が止ま/らなくなって隠すのに骨を折った。畑中さんはその後、念願のツアモツ諸島に渡り、プカ/ルア島で調査を行ったことは、『南太平洋の環礁にて』(岩波新書653)に詳しい。
 
6.ニューカレドニア
 タヒチからニュージーランドへ行く前にニューカレドニアに立ち寄ることは、ホノルル/で、サウス・パシフィック・コミッションのジャック・バロー博士にお会いした時に決め/ていた。真夜中にパピエテ空港を出発したエア・フランスはフィジー経由で一路西に向か/う。2月18日の夜が明けて、下に大きな島が見えてきた。やっぱりメラネシアの島は大/きいななどと、妙な感心をしているうちに飛行機は高度を下げ、トンツータの飛行場に滑/らかに着陸した。


 そうすると、青柳氏が畑中氏と清野老人に見送られたタヒチを発ったのは2月17日と云うことになります。――4月20日付(06)に、畑中氏がプカルアに「二カ月足らず」滞在した「予備調査」の時期「一九六二年の初め」を、昭和37年(1962)の3月頃と推定したのは、当然、青柳氏を見送った後であるはずだからです。
 なお、国立国会図書館サーチ等で検索するに、畑中氏のフランス領ポリネシア滞在中、第五次「思想の科学」第8号(1962年11月)に「ポリネシアだより」を寄稿、岩波書店の「世界」には第212号(1963年8月)と第213号(1963年9月)に「西サモアの人と生活」上・下を寄稿しています。それから毎日新聞社 編『人間形成ある根性 続』(1964年・光風社)に「南の島に人類学研究 東京大学大学院学生 畑中幸子」と題して取材されています。出来れば遠からず、これらも見て置きたいと思っています。(以下続稿)