瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(6)

・プカルア滞在期間について(1)
 昭和36年(1961)12月にタヒチを訪れた北杜夫に、プカルアに渡る前の畑中氏は会っていて、そこで北氏に話した今後の計画について、2020年12月5日付(4)に、1~22頁「Ⅰ ポリネシア人を探しに行く/――フランス領ポリネシア――」の記述を確認して置きました。
 それを実行に移した時期ですが、これが甚だ分かりにくいのです。
 23~47頁「Ⅱ コプラが先か人間が先か/――タヒチ島からプカルア島へ――」の1節め、24頁1~13行め「これからどこへ 」を見ますと、冒頭、24頁1~4行め、

八月十三日「お盆の入り」、くにを離れて二年もたつ。
タヒチ島からトゥアモツ群島へむかうコプラ・スクーナー「アラヌイ」は、出帆時/刻が一応きまってはいるが、じっさいは「船長が帰船次第」である。しかしわたし/は、掲示された時間丁度にいくことにして、パペーテの港に近い市場へ買物に行った。

とあります。2020年12月5日付(4)に引いた「Ⅰ」章6頁12行めに「一九六一年、わたしはタヒチ島に渡った。‥‥」とありましたから、「二年」後の昭和38年(1963)らしく思われるのですが、それでは随分間が空いているような気がして、或いは畑中氏が日本を発ったのは昭和35年(1960)だったのだろうか、と疑いながら、2節め、24頁14行め~26頁1行め「救命具に集まる眼」まで読み進めると、畑中氏が手にしていた救命具に、主に現地人の乗客たちの視線が集まったところで、25頁3~10行め、

 「日本人だよ」、「どこへいくんだろう」、「プカルアだ」、「前にも住んだことがあるらしいぞ」。
 自己紹介などする必要はなくなる。彼らの遠慮のない視線をあびながらもなお、わたしはプ/カルアの人間があらわれるのを待つ。時間はかからなかった。操舵室後方のデッキに場所をと/っていたプカルアのアロナ・ルカが、「テレアハ」と上機嫌でおりてきた。彼は、わたしの本当/の名前は知らない。「テレアハ」とは、一年まえわたしがはじめて島へいったとき、島の人びと/からもらった名前である。歯ぎれはよくないが、「遠くへ旅立つ」という意味の名前をいただ/いて、わたしは「テレアハ」でおさまっていた。プカルアをはなれて以来、久しぶりに耳にし/た自分の名前だ。

との会話から、既にかなりその存在が知られていたらしいことが分かるのですが、何と「前にも住んだことがある」らしい、と云うのです。これに続いてプカルアの住民でタヒチの政府病院で瘍の手術を受けて帰郷する男性に「一年まえ」に「島の人びとからもらった名前」を「久しぶりに」呼ばれるのです。――これによって、この「アラヌイ」乗船が昭和38年(1963)8月13日であったことが明瞭になります。そして「一年まえ」以来の再訪であることも分かってきます。
 昭和37年(1962)初めて訪問したときのことは15節め、41頁1~8行め「われらホエ・フェディイ(一族)」、レアオで41頁1行め「去年プカルアにいた」人間に再会する辺りから、今回との比較で持ち出されるようになります。16節め、41頁9行め~42頁6行め「塩気のない御馳走」では41頁15行め「プカルアで以前わたしが住んでいた家」の持ち主に会っています。
 そして17節め、42頁7行め~44頁2行め「「エル」(ちなよ)」にてプカルアに到着します。42頁9行め~43頁2行め、

‥‥、わたしは荷物を点検し最後に下りた。子供たちが環/礁の浅瀬に出てとびついてくる。子供には裏切られることがない。ラジオメッセージでわたし/の日本名を知ったのか「サチーコ」と叫びながら、わたしの助手をしてくれたティナイアがと/んできた。いつもの通り大勢の人びとが浜辺に出ていた。プカルアにかえってきたのだ。やっ/と着いた安心感から全身の力が抜けてしまいそうであった。皆、ずいぶん色が黒くなったよう/だ。この一年にかなり老けていた。友だちテレイガの父、タフカは死んでいた。ガエハウはす/っかり成人してみちがえるほど美しかった。みなし児のフィリパは全然成長していなかった。/子供たちは多少大きくなっていたが変っていない。わたしにとって新顔の人も六、七人いた。/陸に上るや大人たちが近づいてきた。握手してきたり、女の人たちは頬にキスをしてくる。初/【42】めて島に上陸したときは出迎えた人びとに笑顔をおくってもいっこうに反応がなくていささか/不安を感じたが今度は、わたしは異国人ではなかった。


 さて、18節め、44頁3行め~45頁9行め「時間の流れない世界 」に、44頁7~9行め、

‥‥、この前おいてもらったタペタ・/ニウリキの家を訪れ、家がきまるまでと交渉にのりだした。彼女は、わたしが彼女の家に帰っ/てくるものとばかり思っていた。期待が外れて、少々ふくれていたところだったので‥‥

とある、12行め「一年前」のプカルア初訪問の期間と時期ですが、まづ期間については45頁4~5行め、

 二カ月足らずであったが予備調査のときにわ/たしは、タペタ一家とくらした。‥‥

とあり、時期については、173~194頁「Ⅶ 思いたったら最後/――一文なしの放浪の旅――」の3節め、177頁3行め~179頁3行め「パリジャンの感激」の177頁3~5行めに、

オーベルテール氏はトゥアモツ地方における農業指導の総監督で島嶼群をまわって/いた。わたしが初めてこのプカルアで彼に出会ったのは一九六二年の初めであった。/当時彼はパリから赴任してきたばかり。‥‥

とあって、後述しますが別の根拠からして、昭和37年(1962)の3月頃だったのではないか、と思われます。(以下続稿)