瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(7)

・プカルア滞在期間について(2)
 昨日の続き。一昨日、4月19日付(5)の最後に「明後日」見て置こうと予告した件についても、少し触れております。
 昨日見た「Ⅱ」章の11節め、36頁7行め~37頁6行め「着く日を考えない」に、畑中氏の乗船したスクーナー「アラヌイ」が明け方にハオに着いたところ、36頁12~13行め「政府の船「タマラ」が/「アラヌイ」の後で泊って」おり、15行め「仏領ポリネシア勤務の三期目」の14~15行め「トゥアモツ行/政官のダムリー氏」がハオに来ていることを知る。37頁2~3行め「研究者に対しては少なから/ず羨望と好意をもっていた」ダムリー氏は「わたしに対しても行き届いた配慮があった」と紹介した上で、4~5行め、4月19日付(5)に引いた「あとがき」の謝辞に見えているアリイタイ氏について、

 十年来のコンビである彼の秘書アリイタイはダムリー氏の行くところには通訳をかねてどこへでもあらわれた。アリイタイは、マオリ族の原郷ライアテア島の王族の末裔である。‥‥

と紹介しています。そして12節め、37頁7行め~38頁17行め「思いがけない人がいた」に、このアリイタイ氏から紹介される形で、2020年11月1日付「赤いマント(294)」の最後に私が疑問を呈し(てしまっ)た、タヒチの、日本人鉱山労働者の子孫が登場するのです。
 冒頭、37頁7~16行め、

ハオではタバナ・ハウ(行政官)のダムリー氏を迎える大勢の人びとが海岸に出て/いた。アリイタイからわたしの乗っていたスクーナーにプカルアの学校に赴任す/る先生が乗っていることを知らされた。イヴェール・ビアンといった。十九歳、/教員生活二年目の若い男の先生である。イヴェールはタヒチ人、フランス人、日本人、中国人/の混血である。西洋と東洋のよいところをとったなかなか立派な顔をしている。母方の祖父が、/明治末期マカテアの燐鉱島に契約労働者できた日本人であった。その祖父は三年の契約後、日/本へ帰っており、彼の母もその祖父を覚えていない。イヴェールは祖父の名だけは母から聞い/ていたが度忘れしてわたしの前で思い出せなかった。彼にとって祖父はもう他人同様である。/日本人の血をもつイヴェールに会って、コスモポリタニズムは消えてしまう。「プカルアのよう/な僻地で二年ほど辛抱しなければならない。第一食物がない」、彼の口から溜息しか出なかった。


 38頁上右には、下にキャプション「 “ぼくの祖父は日本人だ” というタヒチ人/ イヴェールと彼を慕うプカルア女」を添えた写真が掲出されていますが、確かになかなかハンサムな男性です。なお、イヴェールは、65~123頁「Ⅴ 招かれざる客/――人間の偉大な生命力――」の22節め、116頁9行め~117頁8行め「「学校教育が遂にやってきた 」の後半から再登場するのですが、117頁1~3行め、

 イヴェール・ビアンは開校以来六代目の教師である。教師はみなタヒチにある公立あるいは/ミッションの教員養成所を出ていた。初代を除けば、みな十九歳から二十二、三歳の青年であ/る。この青年教師に二つのタイプがみられるようだ。怠慢型と暴力型である。‥‥

とあって、ちなみに開校は116頁9行め「一九五六年」です。それはともかく23節め、117頁9行め~118頁9行め「P・T・Aはなかった」の書き出しは「イヴェール・ビアンは後者のタイプであった」つまり暴力型で、120頁上に「スパルタ式教育のため子供たちにとっては/学校は楽しい所ではなかった」とのキャプション(左詰め)を下に添えた教室の写真が掲出されていますが、先入観もあってか非常におっかない雰囲気に見えます。この節の題は、当時日本でPTAが教師にクレームを付けるようになったことを踏まえておりましょう。26節め、120頁6行め~121頁4行め「長いものに巻かれてしまう人びと 」に説明されているように、120頁6~8行め「プカルアの人間はフラン/ス人に対すると同様タヒ/チ人に対しても卑屈」で、12~14行め、誰も「この教師の/子供たちに対する行きすぎた教育に対して/も抗議を申しこめ」ないのです。
 それには24節め、118頁10行め~119頁9行め「タヒチ人イヴェールの威信」と25節め、119頁10行め~120頁5行め「イヴェールの目立つおしゃれ 」に、118頁10~11行め「電池用レコードプレーヤー、ラジオ、119頁テープレコーダー、モーターのついた自/転車、高所得など」と、119頁11行め「折り目のついたショートパンツ、のりのついたアロハシャツ」といった、10行め「みぎれいな服装」で、「タヒチ人の名誉を保」ち、118頁11行め「威信をたかめてい」るため、119頁15~16行め「イヴェールの/方から島の人に口をきくことはほとんどな」い、と云った辺りに、タヒチとプカルアの地理的・経済的格差が心理面にも影響を及ぼしていることが、指摘出来るわけです。
 さて、昨日問題にした、本書に扱われているプカルア滞在が昭和38年(から翌年に掛けて)である件ですが28節め、121頁12行め~122頁7行め「文明社会は野蛮である」にて、初めて世界史的事件と結び付けて明瞭に語られます。121頁12~17行め、

この単調な生活でわたしは一度、現実の世界にひきもどされたことがあった。ふ/とひねったラジオから流れたケネディ暗殺事件である。この悲劇が信じがたく、/わたしはイヴェールの所へ出かけていったがニュースのまちがいないことを知っ/た。「ケネディの死は国際状勢に大きな影響を与えるだろうし、どうなることだろう」と話す/とイヴェールはニヤニヤして「どうして?」という。タヒチ人にとってはケネディの死も隣人/の死も同じであった。当時すでにヴェトナムの緊張は加速度的に増していた。‥‥


 117頁16~17行め「はじめイヴェール・ビアンに、日本人の混血ということから親近感を抱いてい/た」畑中氏でしたが、17行め~118頁1行め「子供に対するせっかんを見ていて不快になり/彼との距離がはなれていった」のでしたが、こういうときにはラジオのある彼のところに行くよりありません。
 それはともかく、ケネディ暗殺事件は1963年11月22日12時30分で、ダラスとは4時間の時差のフランス領ポリネシアでは午前中にラジオで報道されたことでしょう。――これは畑中氏の行動を確認しないと算出基準が割り出せない「一年前」や「去年」よりも、確実です。(以下続稿)