瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(08)

北杜夫『南太平洋ひるね旅』との関連(3)
 4月19日付(05)の続き。――ブラジルの日本語日刊新聞「ニッケイ新聞」のサイト「ニッケイ新聞WEB」の2007年6月27日付「作家・北杜夫さんと独占インタビュー=ブラジル日本移民を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』=2回訪伯=日系人と心温まる交流=訪伯時のエピソードきく」で、北氏が「タヒチの近郊の島での鉱山で働いた移民の子孫が二人、中心都市のパペーテにいまして」と述べていることについて、『南太平洋ひるね旅』に登場する紺野氏や清野氏のことだろうけれども、両氏は「移民の子孫」ではなく「移民」一世なので、どうもこの辺りの北氏の発言は怪しいのではないか、と思ったのでした。『南太平洋ひるね旅』には2020年11月1日付「赤いマント(294)」に引用したように、清野氏が「フランス領タヒチの移民募集の広告」に「応募し」たことは見えているのですが、それがどんな仕事であったかの説明がないのです。
 しかし、本書を読んでいるうちに、昨日引用したプカルアの学校の青年教師イヴェール・ビアンの「母方の祖父が、明治末期マカテアの燐鉱島に契約労働者できた日本人であった」との記述の他にも、次の記述を拾うことが出来ました。
 125~172頁「Ⅵ 太陽はプカルアをめぐる/――人間は年を取らない――」の18節め、148頁5行め~149頁16行め「年などアイタ・ペアペア(気にしない)」には、149頁1行め「戸籍の写し」に拠ると「五十八歳」の、148頁5行め「変りもの」の「トーマという老人」について、6~10行め、

‥‥。レアオの人間であるが、娘たちと死んだ妻の土地でくらしていた。/彼は若いころ、マカテアの燐鉱島に人夫を集めるためレアオへ来た燐鉱会/社の船に乗って二年ほど働きに出かけた。当時、日本人契約労働者が大勢入っており、彼らか/ら仕事の監督をうけた。わたしが日本人であるため昔を思い出したのか島のことばがわかるよ/うになったころを見はからって、なつかしそうに話しかけてきた。‥‥

とあります。1963年の終り頃に58歳とすると1905年生。このマカテアの燐鉱島については、173~218頁「Ⅶ 住めば都のプカルア/――はるかなくにオ・タヒチタヒチ島――」にも2節め、198頁8行め~199頁6行め「われわれの故郷はレアオ 」にも、198頁15行め~199頁1行め、

 三十年ほど昔、プカルアの人間がマカテアへ働きにいったとき、そこへ同じ労務者としてク/ック諸島のラロトンガからきていた人びとと接して、タヒチ語とかなり異なっている自分たち/のことばが通じたため、「先祖が同じかもしれない」という疑惑がもたれ、未だに島民から消/えていなかった。‥‥

と言及されています。
 後者については、「金沢大学文学部論集―行動科学科篇―」第3号(昭和58年3月25日・金沢大学文学部)17~44頁、畑中幸子「東ツアモツ群島における文化の実態」にも、26頁30~33行め、

‥/‥。1918年と1923年の二回にわたりマカテアの燐鉱採掘の人夫募集がレアオ、プカルアに/あり40人近くが妻子同伴で契約労働に出かけた。レアオ島民はマカテアであちこちから来/ている他島の人びとと接触した。彼らはクック諸島の人びととのコミュニケーションの方/がタヒチ人とのコミュニケーションより容易であったという。‥‥

とあり、トーマはこのいづれかに参加してマカテア島で働いたようです。そうすると「三十年ほど昔」ではなく40年ほど昔とするべきでしょう。
 マカテア島はトゥアモツ群島の西端近く、トゥアモツ群島の東端に近いプカルア環礁からは1200km以上離れていますが、タヒチ島からは200km、日本人の感覚からすると随分離れているようですがトゥアモツ群島ではタヒチ島に一番近い島です。しかもナウル島・バナバ島と並ぶ太平洋に於ける燐鉱石の産地(1966年閉山)で、環礁や火山島ばかりのフランス領ポリネシアには他に鉱山もなさそうですし、北氏がインタビューで語っていた「タヒチの近郊の島」の「鉱山」は、ここで間違いないでしょう。
 2020年11月1日付「赤いマント(294)」の時点でここまで調べておれば、誤ることもなかったのですが、追々追加する按配でやっておりますので仕方がありません。――この、タヒチ島の日本人移民は元来がマカテア島の燐鉱山の労働者だった、と云う事実は本書に続いて読んだ、北杜夫『南太平洋ひるね旅』に「I氏」として登場する岩佐嘉親の『南太平洋の楽園』(原題『南海の楽園』)に明瞭に説明されておりました。
 と云う訳で、次に岩佐嘉親『南海の楽園』の日本人移民に関する記述に移りたいのですが、その前に、畑中氏と同行していた大阪市立大学助教授のT氏、畑中氏のプカルア滞在期間、さらに清野さんについて畑中氏の知友の記述について、一通り確認を済ませて置きましょう。(以下続稿)

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 3ヶ月前、1月22日付「ビートたけし『たけしくん、ハイ!』(25)」の付足りにて、IOC解体を訴えたが、その後聖火リレーが始まり、聖火リレー中止を訴えた島根県知事にはあからさまに圧力が掛かり、そしていよいよIOCがその醜怪な本性を露わにして来た。かつて世間には、幾ら日本が――利権に繋がっているJOCとか自民党とかその関係者が東京オリンピックをやりたがっても、IOCが適切な判断をしてくれる、などと云う楽観論もあったかと思うが、彼らが最も crazy であることが明らかになった。もう金輪際オリンピックなど止めたら良い。一体彼らはどこの世界で息をしているのだ。スポーツなど所詮道楽である。楽しくやってもらう分には私だって応援したいのだけれども。そもそも東京オリンピック招致にまつわる疑惑の数々を見ても、もともと連中がまともでないことは明らかだったのだ。
 自民党がただの利権誘導団体に過ぎないことが看破出来ない国民が多過ぎてうんざりしている。ブレーキ係を自称していたはずの公明党は「野党も賛成している」という口実のために野党のフリをしている日本維新の会ともグルになって、危険な煽り運転に加担している。そして2020年3月26日付「飯盒池(6)」の付足りに述べた通り、いよいよ「オリンピックに殺される」状況が現実味を帯びて来た。本当に、昨年の3月に開催返上、中止にしておくべきだった。ここで判断を誤った責任を取って、当時そして現在の関係者は一切の公職から退くべきだろう。敗戦後もゾンビのように影響力を保ち続け、一兵卒の数倍の恩給・遺族年金を受け取り続けたのと同じような不正義を、今度こそ許してはならない。しかしながら忘れっぽく議論が苦手でお互いに甘い日本人は、これからでも中止したことを評価して、また当選させそうで恐ろしい。中止なんて当然のことだ。だから特に強調して置こう。――ここまで中止しなかった責任が問われるべきなのだ、と。かつ、ジャーナリストを自称しながらまともな意見を発することも出来ずに、このような状況になっても、2020年6月1日付「図書館派の生活(7)」や2020年6月5日付「内館牧子『必要のない人』(2)」に批判した通りのオリンピック推進報道を続けるばかりのマスコミ各社も、相応の対応がない限り、地に堕ちた信頼は二度と回復しないであろう。知らんけど。