瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(09)

 前回引用した「金沢大学文学部論集―行動科学科篇―」第3号(昭和58年3月25日・金沢大学文学部)17~44頁、畑中幸子「東ツアモツ群島における文化の実態」について、もう少し見て置きましょう。――畑中氏は『南太平洋の環礁にて』以外に、南太平洋に関する著書を出していないようですが、調査は続けていて、「東ツアモツ群島における文化の実態」の冒頭、18頁1~3行め、

 筆者がプカルア島でおこなった社会人類学の調査(1961―64年)とレアオ島で1976年、/1980年に学際調査でおこなった “東ツアモツ群島へのポリネシア人の移住に関する研究” /(科学研究費海外学術調査)の成果をもとに、‥‥

とあり、また19頁32~34行め、

‥‥。1977/年(スミソニアン研究所緊急人類学調査委員会の援助による)、1979年(トヨタ財団の助/成金による)に筆者は単身レアオ島に戻り、‥‥

とあって、今度はレアオ島に昭和51年(1976)から昭和55年(1980)に掛けて6名の団員の学際調査が2回、それとは別に単身で2回の、合計4度、調査に出掛けているのです。この報告の中で気になったのは、2020年12月5日付(04)に触れた、レアオ島のハンセン氏病に関する記述で、少々意外な発展をします。
 これについては『南太平洋の環礁にて』にも、71~93頁「Ⅳ 時間が流れない/――荒涼たる世界――」の16節め、87頁11行め~88頁6行め「どこから入ったかおそろしい病気 」、87頁11~17行めには「遺跡」の近くにある「墓」につき、「約三十年前」に「重症であったためレアオの癩病院におくられることになっていた」が「船を待っている間に死んだ」と云う「二十歳の若い女性」について述べ、88頁1~6行め、

 一九二五年レアオで癩が集団発生したとき、レアオと通婚関係のあるプカルアにも癩が入っ/ていた。レアオ育ちのテプコルによると、彼女の子供のころは、鼻のくずれた人間や耳のとれ/た人など沢山みていたから癩病はこわくないという。一九三六年に再びレアオで集団的に発生、/病院が設けられたが、その頃プカルアでもかなりの重軽症の癩患者を出し、ミッションの命令/でレアオにおくられたという。半年に一回、スクーナーが来るか来ないかというくらい孤立し/ていたレアオに癩が発生したのは不思議なことであった。

と解説してありました。
 「東ツアモツ群島における文化の実態」では更に詳しく、25頁22行め~30頁「社会変化の過程」の節に、25頁23行め~26頁3行め、

 東ツアモツ群島はフランスの保護領になった後、間もなく政府が行政をカソリックミッ/ションに委託していた。1880年フランス植民地に併合され、初めて地方行政が施行された。/僅かなコプラ以外に何の資源もない遠隔の一環礁レアオは政府の関心をひくこともなかっ/た。レアオは孤立しながらも、ようやくその名がタヒチ島で知られるようになったのは、/1925年、1934年の二度にわたるハンセン氏病の流行である。最初の流行時には二村のうちの/一村が村ぐるみでタヒチ島のオロハラ癩療養所に送られ、大勢の者が帰島しなかった。この/グループに口碑伝承や系図をひそかに伝えていた古老が何人かいたという。1963年、筆者/が訪ねた時は病状のためコミュニケーションが不可能であった。二度目の流行ではレアオ/に療養所が建てられ、オロハラから一人の看護夫(infirmier)が派遣された。この人がピエ/ール・フィウ氏であった。レアオの療養所にはプカルアをはじめ近隣の島からも患者が送/られ、1934年には90名の患者がいた。レアオ療養所にはフランス政府だけでなく米国のモル/【25】モン協会に属する団体から救援物資が続けて船で送られてきた。この時レアオ住民は初め/て外国の食品―粉ミルク、砂糖、米、魚肉類の缶詰―に接した。これより外来の食糧への/強い慾求が生まれた。

とあります。そうするとレアオの2度めの流行は、1936年ではなく1934年のようです。1963年、と云うのは、4月20日付(06)に見たように、畑中氏が8月13日にコプラ・スクーナー「アラヌイ」でタヒチ島を出航するまで、と云うことになります。フィウ氏のことを「この人が」としているのは18頁13行め~20頁8行め「はじめに」に、20頁5~8行め、

‥‥。数少ない島のタフガ(=賢者)といわれているテアカ・タイレリュウら古老の外に、/1934~56年までレアオ島の癩療養所で働いていたタヒチ人看護夫*1ピエール・フィウ氏の協/力で、ある程度までレアオ島の伝統文化を堀り出すことができた。彼らがレアオ島に関す/る最後のインフォーマントであった。

と先に名前が持ち出されていたからです。
 なお、この辺りの経緯及びフィウ氏については、「国際関係学部紀要」第23号(1999年10月・中部大学国際関係学部)25~38頁、畑中幸子「東ポリネシアから消えた文化遺産一消えたチャントー」の「はじめに」にも、26頁7行め~27頁10行め、

 1962年,筆者は仏領ポリネシアのツアモツ群島プカルア環礁で偶然,古老たちが歌っているチ/ャントを聞いた。研究課題に追われていた筆者はチャントの重要性に対する認識が足りなかった。/【2】プカルア島の調査で島民の祖先が30マイル離れているレアオから移住してきたことがわかった。
 1976年から “東ツアモツ群島へのポリネシア人の移住に関する研究” 課題の下でレアオで学際/調査を始めることになった。 1976~80年の間,レアオで120余りのチャントを収集した。核実験の/ため,時にはレアオへの渡航が不可能になり,単身タヒチでレアオで録音したチャントの転写に/かかったこともあった。幸いなことに1934~56年までレアオのハンセン氏病療養所で働いていた/タヒチ人看護夫ピエール・フィウ氏を助手に作業を始めることができた。フィウはマンガレバ島/の調査の帰途,レアオに来たピーター・バックと三か月間生活を共にしていた。 1935年のことで/ある。ポリネシア研究に既に偉大なる業績を残していたマオリ族の血をうけたバックからフィウ/は,ポリネシア文化に関して薫陶をうけた。フィウはレアオの過去に興味を抱くようになり,当/時の古老の話を記憶に止めていた。レアオに関する最後のインフォーマントともいえる。

との説明があります。これら2つの論文で取り上げられている「レアオのチャント」についても、ちゃんと説明して置きたいところですが、長くなりますのでここにはその存在をメモするに止めましょう。(以下続稿)

*1:ルビ「アンフィルミェ」