瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

佐木隆三『復讐するは我にあり』(1)

 さて、4月9日付「水島新司『ドカベン』(60)」を「今村昌平監督『復讐するは我にあり』(1)」と題して投稿しようかと思ったのだが、鈴木則文監督『ドカベン』のロケ地として、欅並木の鬼子母神表参道と西参道商店街の分岐点にあった本屋に注目したのだから、逡巡の末(?)『ドカベン』の題で投稿したのである。
今村昌平監督映画 昭和54年(1979)4月28日(土)公開

復讐するは我にあり [VHS]

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復讐するは我にあり [DVD]

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復讐するは我にあり [DVD]

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あの頃映画 「復讐するは我にあり」 [DVD]

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・パンフレット
・ポスター
・ちらし
【映画チラシ】復讐するは我にあり

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  • メディア: おもちゃ&ホビー
 佐木隆三の名を冠しているけれども、映画の話ばかりしている場合も「水島新司ドカベン』」と題しているように原作の著者・標題を記事の題にすることにしているので、しばらく佐木氏の原作の話はしません。そのうち映画と対照して見ようとは思っているけれども。
・福樹荘の神吉梅松弁護士(1)
 4月9日付「水島新司ドカベン』(60)」にも触れたミックノキモチのブログ「乱雑古本展示棚」の2012/06/27「雑司が谷タイム・スリップ その1/「復讐するは我にあり」の福寿荘 東京都豊島馬区雑司が谷/†ここで殺人があった」に、次のような記述がある。

 今ではすっかり様変わりをしてしまった東京・池袋の南、鬼子母神周辺だが、私が小さい頃は都電停留所から明治通りにかけて、賑やかな商店街があった。
 ‥‥。その商店街の中ほどに、鬼子母神の電停から行くと右手に古色豊かなアパート福寿荘があった。中廊下を抜けるとけやき並木の鬼子母神への参道へ出られた。
 高田本町があったころの餓鬼どもは通り抜け禁止の張り紙を無視して、よく走り通ったものだ。


 この辺りは戦災を免れたようで、昭和20年代後半の航空写真にて、分岐の何軒か北、表参道と西参道に跨がるように建つ福樹荘が確認出来る。昭和55年(1980)頃の航空写真には写っているが、昭和60年(1985)頃の航空写真では現在のマンションに変わっているようだ。そこで不動産情報サイトにて検索するに、現在のマンションは「築年月 1982年8月」である。すなわち、『復讐するは我にあり』撮影から何年もしないうちに取り壊されたことになる。
 さて、「乱雑古本展示棚」では西参道商店街から入っているが、映画の緒形拳は表参道から入っていた。この東西両方の出入口を繋ぐ「中廊下」だが、映画にも写っている。――01:54:38~52、老弁護士の部屋の窓から見下ろした鬼子母神表参道が「12月20日」のテロップとともに写る。現在と違って石畳がなく全面に舗装されており、向かいに「三幸」と云う中華料理屋の暖簾が写る。そこにパトカー等の警察車輌が何台も停まって捜査員でごった返している。続いてカメラは室内に向いて、白衣の検視官が加藤嘉の検屍をするところを写す。そして01:55:05~、白黒テレビの画面越しに、まづ上から、アパートの白壁の階段を白布で覆った担架を検視官や鑑識係が下ろすところを写す。階段を下りたところにドアがあって表参道側の出入口である。次いで外からこの出入口を出る担架の一行を写すのだが、01:55:17~19、奥に、ガラス窓から光が射し入る西参道側の出入口のドアが写るのである。観音開きで長方形のガラス窓がそれぞれの扉の上からかなり下に掛けて4つずつ、そこを透かして西参道の向かい側の建物まで見えている。さらにその上の欄間にもやや縦の狭い、中央に細い仕切りのあるガラス窓が2つ見える。この間が「中廊下」であるが20mはあるのでかなりの奥行きが感じられる。幅も「餓鬼ども」が「走り通った」には十分なくらいありそうだ。
 この映像に被せてアナウンサーの声で事件が説明される。曰く「捜査本部の調べに拠りますと、被害者の弁護士、カワシマキョウヘイさん、68歳の、自室6畳間の、殺害現場は、室内の物色の跡が酷く、現金約5万円などの被害が確認されました。目撃者の証言から、捜査本部では、殺人鬼、榎津巌の犯行ではないかと見ています。また榎津を、都内池袋で」と、この辺りで画面では老弁護士の遺体を運搬車の後部に載せて、眼鏡を掛けていない「榎津巌(37)」の顔写真に切り替わると共に、このニュースに見入っていた貸席・旅館「あさの」の女将(小川真由美)の後ろ姿(斜め)も写り、続いて榎津の顔写真を写しながら「目撃したとの有力な情報もつかんでおり」と、ここまで見て女将はテレビを消す。
 緒形拳(1937.7.20~2008.10.5)は公開当時41歳、別に37歳でもおかしくはないが今時の30代ではない。加藤嘉(1913.1.12~1988.3.1)は公開当時66歳、しかしもっと年上に見える。昭和50年代の見た目と年齢の関係と、40年後の今のそれとでは、懸隔が甚だしい。西口彰事件のあった昭和38年(1963)では、尚更であったろう。ここで驚かされるのは、実際の被害者・神吉梅松(1881~1963.12.20)が、加藤嘉よりもずっと年上であることである。神吉氏は法曹界で半世紀以上生きて来た人間なので、ネットで検索すると裁判関係の資料が幾つかヒットする。ただ、詳細は原本まで遡らないと分からないので、ここではネットで詳細まで分かる明治43年(1910)の「官報」と大正9年(1920)の民事裁判の記録に触れて置く。
 国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧出来る「官報」第八千百七號(明治四十三年七月一日・印刷局・30頁+附録1頁)八頁上段30行め~一一頁上段「○敍任及辭令」の、一一頁上段16~17行めに、

十二級俸下賜(以上〈六 月 三/十 日  〉同)
補松本區裁判所檢事        〈水 戸 區 裁 判 所 檢 事 兼 水/戸 地 方 裁 判 所 檢 事 檢 事〉 神吉 梅松

とあり、21行めに、

九級俸下賜           松本區裁判所檢事檢事 神吉 梅松

とある。数えで三十歳の明治43年に水戸から松本に転任している。「官報」にはこの他にも出ているであろうが、検索でヒットしたのはこれのみ、ヒットしないものまではとても探していられない。
 それから名古屋大学大学院法学研究科「日本研究のための歴史情報判例データベース(明治・大正編)」では、1件「手附金返還竝ニ損害賠償請求ノ件」(大審院民事判決録(民録)26輯411頁)がヒットする。「大正八年(オ)第九百三十五號/大正九年三月二十九日第二民事部判決」で「上告人 藤間仙吉/訴訟代理人 高橋織之助/被上告人 門田音熊/訴訟代理人 神吉梅松」と見えている。訴訟代理人の高橋織之助(1868.二.二十七生)は名古屋大学大学院法学研究科「日本研究のための歴史情報 『人事興信録』データベース」にて、「高橋織之助 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)」が原本の画像ともども閲覧出来る。その項目の末尾に「(東京、神田、錦町三ノ五電話本局二一五六)」とあり、中央区立図書館地域資料室アーカイヴス「電話帳簿」にて画像公開されている『大正十五年五月一日現在/東亰電話番號簿』(東京中央電話局)を見るに被上告人のみ、169頁左列2行めに「門田音熊…………………京橋56-0725 京、東湊、一ノ二三、萩田方」と見えている。どうやら神吉氏は大正の前半には検事を辞めて東京で弁護士をしていたようである。(以下続稿)